久木元真吾「レトリックとしての身体感覚」

レトリックとしての身体感覚

久木元 真吾

『年報筑波社会学』(筑波社会学会)第8号(1996年9月)掲載(pp.179-198)


0 はじめに

 「現代社会と身体感覚の変容」というテーマでシンポジウムが企画されること、そしてその企画の趣旨として、現代を「われわれの身体が問題となっている時代」ととらえる言葉が語られること(注1)。こうしたことは、次の二つのことを表していると思われる。第一に、身体というものにある種の「現代性」とでもいうべきものが見出せる(と思われている)ということ。そして第二に、その「現代性」というものは、身体の「感覚」の「変容」として理解されているということである。このことを、次のように言い直すこともできよう。すなわち、われわれが生きる「現代」(「現代社会」)というものは、ある変化・変容の時代(社会)であって、しかもその変化は、身体といういわば直接的な感覚の水準にまで効果を及ぼすような変化である、と。現代というものに、過去との断絶を見出し、身体のレベルの変容というものに、その断絶ないし変容の深さを見出す――背景に存在しているのは、このような視線なのではないだろうか。こうした視線は、例えば近代においては原身体性ともいうべきものの抑圧があるとして、近代・現代社会批判の可能性を原身体性の回復にみるようなタイプの議論にも共有されていると考えられる。あるいは、様々なレベルでヴァーチャル化(注2)が進む現代社会において、身体がリアルなもののいわば「最後の砦」としてより高い価値を持ち始めている、といった議論も、やはり同種のものだと思われる。それぞれの主張の間には、身体をalternativeとするほどにまで評価しているか否かなどの相違点はあるかもしれないが、いずれにせよ、身体を現代性の焦点と考えること、そして身体のレベルの変容を現代社会的な変化としてとらえることの二点において、基本的に議論の構図は共通しているといえるのではないだろうか。
 こういった議論は本当に有効なものなのだろうか、という問いが、本論文の出発点にある。無論すべてを否定するわけではないが、現代社会論として身体を論じる上で、その有効性の射程は改めて検討する必要があるのではないだろうか。ここでは、身体感覚について言及する、近年多くみられるあるタイプの言説を手がかりにしながら、こうした問題について考えていくことにする。そして、しばしば「現代社会的なもの」として語られる身体感覚(の変容とされるもの)は、実際の身体感覚の単純な反映という以上に、レトリックとして用いられているのではないかということを中心に、以下で議論することにしたい。
  
 身体というテーマは、様々な知の領域において、実に多彩な考察を生み出してきた。ここではその豊かな蓄積の、特に社会学および関連諸分野において得られた知見について、わずかながら確認をしておくことにしよう。
 何よりもまず確認しておかねばならないのは、次のことである。すなわち、身体というものは決して単なる生物学的・解剖学的な与件として扱えばすむものではなく、超歴史的で普遍的な与件でもないということ、むしろ身体というものは、社会的・歴史的な構築物として考えねばならないテーマであるということである。身体をある自明性の領域に置いてしまうのではなく、むしろ身体が帯びているその自明性こそを問い直すということ――こうした視点は、実に多くの論者たちによって主張されてきたために、もはや近年においては必ずしも斬新なものとは感じられなくなってしまったかもしれない。だがこの「身体の社会性・歴史性」という認識は、きわめて重要であることにかわりはなく、何度でも繰り返し確認されるべきであろう。
 その一方で、「現代社会論」と呼ばれる領域において、身体が重要な論点の一つとして位置し続けていることもまた指摘できる。現代社会というテーマが、身体において、あるいは身体を通して、多くの論者たちによって議論されているのである。
 例えばローウェン(Lowen, A.)は、現代社会を理解する上で鍵になるものとしてナルシシズムという概念を議論している[Lowen, 1985=1990]。ナルシシズムをキーワードに現代社会を論じるものとしてはラッシュ(Lasch, C.)のものがよく知られているが、ローウェンの議論の特徴は、ナルシシズムを「身体感情の否定」としてとらえているという点にある。彼によれば、現代人は「身体感情からくる自己感覚」が欠けており、イメージに基づく心的構成体としての自我(ego)と身体的・感覚的なものであり「身体の感情的側面」である自己(self)の二つのうちの前者が優越してしまっている。その結果、自己と感情とが乖離し、真の自己が否定される結果となっており(=ナルシシズム)、現代社会においてはこのようなナルシシズム的傾向がひとつの文化的強制力として作用しているというのである。ローウェンは、こうした状況の中でのalternativeとして身体を重視する。「真の自己感覚は身体感情によって規定される」と考える彼は、身体への直接的なはたらきかけを通じて、「現実に根ざした感情」をとりもどすことが現代社会に生きるわれわれにとって必要なのだと主張している。
 他にも、例えばオニール(O'Neill, J.)は、フーコーなどの議論を踏まえながら、ハードな処罰とは異なるソフトな治療という戦略を展開する「治療国家」概念などを用いつつ、現代社会における身体をめぐる考察をおこなっている[O'Neill, 1985=1992]。彼はそこで、直接的な身体は人間性の基礎たるものであると考えており、しかもそれは近現代社会においては失われてしまったものであって、その「道徳的基盤」たる身体を「思い出す」ことの重要性を主張している。オニールはローウェンに比べてかなり複雑な議論を展開してはいるが、いずれにせよ近現代社会においていわば「疎外」されてきた身体のalternative性に関心が向けられているという点において、共通しているといえるだろう。
 本論文では、こうした現代社会論において問題化される身体というテーマに照準しながら、考察をおこなうことにしたい。

1 真実性の基準としての身体感覚

 ここで特に注目するのは、身体感覚に言及するあるタイプの言説である。これらの言説は、身体感覚というものを、ある真実性の基準としてとらえるという特徴をもっている。事例をみてみよう。
  
「注意深く自分の感覚に問いかけて、心地良いと思うことをして、イヤと思うことはしない。…泣きながら過食しているあなたは、あなたの中の他人がそれを望んでいるのだと悟って、しっかり、楽しく食べ続けて欲しい。お腹が一杯になったら、「もう食べるのはイヤ」と言っている自分に気づいて、食べるのを止めてあげて欲しい。肥ってしまうと思ったら吐けばよい。しかし吐くのが苦しいと言っていたら、無理に吐かないであげて欲しいのです。痩せたいといっていたら、痩せるようにしましょう。でも空腹の苦痛には気づいてあげてもらいたい。寝ていたいあなただったら、寝させておきなさい。学校がイヤなあなただったら家にいなさい。とにかく親友にしてあげるように自分にしてごらんなさい。できないと言わずにそうし続けてごらんなさい。いつの間にか、あなたはあなたに感謝し、あなたを責めなくなる。そのとき、あなたはあなたに抱擁され、その温もりの中で寂しさと渇望を忘れるようになるでしょう」[斎藤(編), 1991(下):158-9]。
  
 「私は一対一のセラピーでも、グループワークでも、ヨガをベースにしたボディワークを積極的に組み入れています。というのは、現実のあるがままの自己を受け入れ、卑しめられ蔑まれた現実の自己を回復するには、身体というまぎれもない「今、ここ」の存在に働きかけるのがいちばんいいからです。失われた身体性を取り戻すことで、引き裂かれた私を回復していくのです。…身体への刺激に対する反応は、いいか悪いか、するべきか否か、意味があるかないか、効果があるかないかを超えて、快か不快かしかありません。気持ちいいか気持ちよくないか、このどちらかなんで、ここには理想化された自己も、現実の卑しめられた自己もありません。まるごと「私」に決まっているんです。そして「気持ちいい」やり方で身体を動かしたり刺激したりして、その「気持ちよさ」を感じていれば、このまるごとの「私」の内にエネルギーが満ちてきます。愛する人や宝物を扱うように、ていねいにいとしげに身体を扱っていけばいいのです。…過食の衝動に駆られたとき、ヨガを行なっていったんくつろいで、「今、ここ」にとどまってみる。自分の内部の声に耳を傾けてみる。…まるごとの「私」を抱きとってあげる」[森川, 1991→1994:224-6]。
  
 この二つの事例は、いずれも摂食障害の人たちに向けて書かれた文章で、前者は精神科医、後者はセラピストの手によるものである。したがって、摂食障害をめぐって書かれたものであるからこそ、これらの事例においては特に身体が焦点化されているということも指摘できるかもしれない。だが実際には、こうした「身体感覚をある真実性の基準としてとらえる(ことを促す)言説」は、摂食障害の周辺にとどまらず、ある程度の裾野の広がりをもって見出される。
 例えば、自己啓発セミナーにおいては、「自分の体で気づいたことや心の向かう方向に忠実であること」が強調されるという[芳賀他, 1994:150]。本で読んだり、頭で考えたりするのではなく、その人自身の体験が重視され、快・不快ともいうべき「今、ここ」でのその人の気持ちを大切にすることが強調される。「肝心なのは言葉ではない。言葉に頼りすぎるから、考えるから、本当の自分を生きれなくなっている」とされ、頭で理解するのではなく身体レベルで「気づく」ことが重視されるのである[井上, 1989]。島薗のいう「新霊性運動」においても、身体を通じた意識変容の実現や「本当の自分」の発見がめざされたり、その過程で身体的な「実感」が強調されることがしばしばである[島薗, 1992:234-239][芳賀他, 1994:105-112]。
 また、アメリカ合州国の例であるが、著名なフェミニストであるスタイネム(Steinem, G.)は、ベストセラーとなったその著書で内面の変革の重要性を語っている:「あなたの答えがなんであれ、それを信じること。私たちはみな自分の中に、どこへ行って何をすべきなのかを知るのを助けてくれる羅針盤を持っているのだ。そこから発される信号は、強い興味、わくわくする気持ち、純粋に理解することの喜び、そしていま自分が新しい領域にいること――そして成長しつつあること――の証ともいえる恐怖感などだ。…内面から発せられるこれらの信号に、敬意を表して従うこと自体が、すでにこの行程のはじまりなのだ」[Steinem, 1992=1994:217]。そして身体は、この「内面」がよく反映されるものとして位置づけられている:「驚くべきことは、いかにしばしばからだが完璧なまでに象徴的な行動――なかでもとくに内面の要求に語りかけるもの――を選ぶかということだ」[Steinem, 1992=1994:307]。
 このように、「身体感覚をある真実性の基準としてとらえる」言説は、現代社会においてある一定の広がりをもっているということができるのではないだろうか。このようなタイプの言説がもつ特徴の整理を試みるならば、次の4点にまとめることができよう。すなわち、
[1]【メッセージとしての身体感覚】:身体感覚を、自分に対する有意味なメッセージとしてとらえる。
[2]【「もう一人の自分」としての身体】:そのような有意味なメッセージを発する身体を、「もう一人の自分」としてとらえる。
[3]【自己の真実を反映するものとしての身体感覚】:身体感覚というメッセージ(を伝えてくる「もう一人の自分」たる身体)は、あるがままの自己の真実を反映していると理解する。
[4]【身体感覚への随順】:したがって、真の自己を反映している、身体感覚というメッセージに、いわば「耳を傾け」素直に従うことが望ましい、とする。
身体感覚を、ある真実性の基準としてとらえる言説は、こういった諸点によって特徴づけられるといえよう。
 一見すると、このような形で身体感覚が言及されることは、身体感覚というある純粋さへの関心(という現代社会的な現象)の現れであるかのようにさえみえる。そして事実、社会学者たちの中には、そのように理解して各自の現代社会論を展開している者もみられるのである。
 例えば、ターナー(Turner, R.)の「衝動impulseとしてのセルフ」というよく知られた議論[Turner, 1976]は、その一例であるといえよう。ターナーによれば、現代社会においては「制度institutionとしてのセルフ」から「衝動としてのセルフ」へという移行がみられるという。前者は社会的な規範や価値などにしたがう制度的な規制の中に真の自己が見出されるというものを意味し、後者はそうした制度的な規制に同調せず、衝動を解放するときに真の自己が見出されるというものを指している。後者においては、倫理的・社会的な基準とは関係なく、spontaneousな欲求に依拠することが重視され、そうすることを通じて発見されるものとして「真の自己」はとらえられている。
 また、日本の社会学者たちの議論にも、身体感覚の重視ということに注目した現代社会論の例がみられる。
 芳賀学は、べラーの表出的個人主義の議論を参照しつつ、現代日本の若者において、非日常的・コントロール不可能な感情の重視という傾向(「体感志向」)がみられ、そうした感情が「自分が「あるべき姿」に変身していく」契機としてとらえられている、と論じている[芳賀, 1992][芳賀他, 1994]。
 土井隆義は、カルト信者の若者などにみられる「身体感覚の重視」を現代的な現象として把握した上で、この現象を〈社会=不純=言語〉対〈自然=純粋=身体〉という構図を用いて説明を試みている[土井, 1995]。土井によれば、社会が高度産業化の中で駆逐してきた自然が唯一残されたものが身体であり、言語性や「不純」であるところの社会性を排除することを通じて、「純粋な自然」たる身体感覚まで遡ろうとしているのが現代の若者たちなのだという。
 また井上芳保は、メルッチの議論を参照しながら、「前言語的な身体性領域から発される身体性メッセージ」が現代社会の危機へのアラーム・シグナルの役割を果たしうる、と主張している[井上,1992, 1993]。井上は土井とは異なり、無条件に身体を一種のalternativeとしてとらえる把握には慎重な姿勢をみせるが、とはいえやはり、「モダン的理性の限界を突破しうる身体性メッセージ」という彼の議論からは、少なくとも一定のalternative性を身体感覚に認めていると理解することが可能であろう。
  
 しかし、このように「身体感覚をある真実性の基準としてとらえる」言説をそのまま真の自己の希求に結びつけ、それを現代社会的な現象として論じるという、社会学者による現代社会論的な議論の有効性は、果たしてどの程度のものなのだろうか? 現代社会においては身体感覚が変容しているということ、身体感覚がある真実性の基準としてとらえられているということ――こういった議論にいわば「落ち着いて」しまうのは、一体どういうことなのだろうか?
 そのことを問うために、迂回するようではあるが、まず「自己」という概念について検討をしておく必要がある。

2 自己に関する検討:自己物語論

 自己に関するこれまでの社会学的な研究は、自己という現象が社会的に構成されるということを主張してきたといえる。例えばミード(Mead, G. H.)は、個人の「全体的で統一的な自我は…社会過程のなかで生じる」[Mead, 1934=1973:154]として、自我とは社会的に発生してくるものだと論じている。彼によれば、「自我意識のある個人」よりも社会過程こそが時間的にも論理的にも先行するのであって、「社会的経験と無関係に自我が生じると考えるわけにはいかない」[Mead, 1934=1973:199,150]。自己はあくまでも関係的な現象なのである。「われわれを自我意識のある人間たらしめるものが、われわれを社会のメンバーにもするし、われわれに自我をもたらしもする。他の自我たちとの明確な関係づけがなかったら、自我は存在できない」[Mead, 1934=1973:174]。
 確かに自己は関係的な現象であり、このことは何度でも確認すべきことではある。だが、単に一般的に「自己とは社会関係の所産である」というだけでは、指摘としては充分とはいえない。なぜなら、社会関係の所産であるのは何も自己に限ったことではないからである。自己という現象の固有性にふれるには、さらに論じる必要がある。
 ミードは、有名な「I / me」という概念を用いながら、次のようにも述べている:「他者たちと自分自身の生物体とを関係づける過程は、「I」と「me」の会話をともなって個人の行為のなかにもち込まれるかぎりで、相互作用をとおして進行していき、自我を構成する」[Mead, 1934=1973:191]。つまり、Iとmeの相互作用が成立している限りにおいて自己が構成されるというのである。このことはすなわち、「自己は関係である」という命題の意味するところが、@「自己とは対他関係(=自己と他者との関係)において構成される」ということに加えて、A「自己とは対自関係(=自己と自己自身との関係)である」ということでもあることを表している。つまり、自己とは単に関係的な現象であるというだけではなく、二重に関係的な現象として理解されるべきなのである。そしてこの「自己自身との関係」という二点目の特徴こそが、自己という現象を単なる関係というだけにはとどまらないものにしているのである(注3)。
 それでは、自己のこのような「二重の関係性」という特徴を取り込んだ理論枠組として、どのようなものが考えられるだろうか。例えば、浅野も指摘しているように、ジャージェン(Gergen, K. J.)の「自己物語(self-narrative)論」はその可能性をもつものの一つであるように思われる[浅野, 1993](注4)。
 ジャージェンによれば、自己物語とは次のように定義できる。すなわち、「自己に関連するさまざまな出来事の間の関係について、個人が時系列にそって説明を与えること」[Gergen et al., 1983:255] [Gergen, 1994:187]である。この概念化の前提となっている考えは、第一に個人は「自分が何者であるか」という問いを通じて、自ら自己自身を形成・再形成しているのであり(reflexive)、そして第二に、個人のある時点での自己認識は、ある時間の流れの中で過去の出来事との関連においてなされている(diachronic)、という理解である。このような構造をもつものとして自己を把握するために、自己物語という概念をジャージェンは提示しているのである。この自己物語という概念が、上述した「二重の関係性」としての自己という理解とスムーズに接続しうることは明らかであろう。人々が生きている/語られる自己を物語としてとらえることによって、対自関係における自己自身を自己概念に含み込むことができるのである。
 以上をまとめるならば、(a)自己とは二重の関係であるということ、特に自己自身との関係という面をもっており、そのことが自己という現象の固有性を構成していると考えられること、そして(b)自己物語論、あるいは物語としての自己という理解は、そうした特徴をもつ自己という現象を的確に描きうる理論枠組であるということ、と整理することができよう。
  
 では、このような自己物語というものは、いかなる特徴をもつものなのであろうか。
 まず確認すべきことは、あらゆる自己物語は決して必然的なものではなく、他のようにも語られうるものだということである。自己物語は、自己に関連する様々な出来事に対して与えられるある一つの説明であるにすぎない。言い換えれば、与えられる説明は一つに必然的に定まるわけではなく、自分の人生や自己の履歴について、同じ出来事をもとにしながら、多様な形の自己物語を語ることが実際には可能である。自己物語は、少なくとも原理的には、偶有的なものであるにすぎない。
 しかしそれにもかかわらず、現実にわれわれが生きる自己物語においては、その特定の自己物語こそが「正しい」もの、ないしは「他ではありえないもの」として自明視されている。他の自己物語をも語りうるという可能性は、基本的に想定されていないと思われる。自己物語というものは、このように、本来的には偶有的なものであるにもかかわらず、他の語り方の可能性が念頭におかれないほどの自明性を帯びているのである。自己物語のこのような特徴を、浅野[1994]にならって自己物語の「神話」性と呼ぶことにしよう。浅野の定義にしたがうならば、「神話」とは、物語的リアリティないし物語的セルフ・アイデンティティが、あたかも先験的なものであるかのように現象する、このような先験性を仮構している物語をいう。他のようにも語られうる可能性が隠蔽された「神話」として自己物語が機能することによって、すなわち、自らの物語性を隠蔽し、「私」のリアリティを先験的な(=他ではあり得ない)ものとして仮構することによって、人はある特定の語りの内部に囲い込まれ、固定したセルフ・アイデンティティへとつなぎ止められるのである[浅野, 1994]。
 ところで、こうした物語論的アプローチを背景とする家族療法家であるホワイト(White, M.)とエプストン(Epston, D.)によれば、人々が治療を求めてやってくるほどの問題を経験するのは、彼らが自分たちの経験を語っている(storying)物語、または他者によって語られている(storied)彼らの物語が、充分に彼ら自身の生きられた経験を表していないときであるという。こうした場合に、生きられた経験と矛盾するこれらの物語を、ホワイトらはドミナント・ストーリー(dominant story)と呼んでいる。したがって、人々が治療を求めてやってきたときに容認しうる結果とは、オルタナティヴ・ストーリー(alternative story)の同定と誕生であるという。ドミナント・ストーリーの外側に汲み残された経験のいくつかの側面を汲み入れるような形で、より満足のいくオルタナティヴ・ストーリーをつくり、語り直すことが目指されることになるのである。そうすることによって、クライアントは「新しい意味を上演すること」ができるようになり、「望ましい可能性、すなわち、人々がもっと役に立ち、満足のいく、幅広い解釈を許すものと経験するであろう新しい意味」を手に入れることができるようになるのだという[White et al., 1990=1992:33]。
 このことを自己物語について換言するならば、クライアントに苦痛を引き起こしている自己物語を、より生きやすいものに書き換えるということ、つまり既存の自己物語を相対化し、新たに語り直す(restorying)ということになる。家族療法家たちによる、このような「語り直し」のプロセスを整理してみるならば、次のようになろう(注5):
(1)これまでの人生に生じた出来事をふりかえり、その中から現在の自己物語にフィットしないものを見出す;
(2)その出来事に焦点を合わせることによって、自分の人生が別様にも語りうることを自覚する:これまでの自己物語の被選択性・虚構性を発見する;
(3)これまでの自己物語の外に出て、改めて自分が生きやすいように物語を再構成し、語り直す。
 だがこのようなrestoryingに際して困難となるのは、自己物語が「神話」性という特徴を帯びており、したがってきわめて自明性の高いものとして生きられているために、それを相対化することが必ずしも容易ではないということである。これは上記のステップの(2)に相当することであり、「神話」性に対して「脱神話化」と呼ぶことにしよう。この「脱神話化」の困難ということを、いかにクリアするか――このことが問題となるのである。

3 レトリックとしての身体感覚

 前節で確認したのは、自己物語論という枠組が有効であるということ、およびrestoryingに際して自己物語の脱神話化という困難があるということであった。ここで改めて、議論の最初に事例として挙げた「身体感覚への言及」について考えることにしよう。
 ここでの主張は次のようなものである。すなわち、事例として挙げたタイプの言説において、身体感覚は、「真実」な自己へと変化が成し遂げられる際にレトリカルに用いられているのではないだろうか? 身体感覚への言及は、直接に身体感覚の重視を意味しているという以上に、レトリックとして理解することができるのではないだろうか?
 身体感覚というレトリックは、restoryingに不可避的に伴う困難を、(完璧にではないにしても)比較的容易にクリアすることができると思われる。身体感覚は、これまでの自己物語を偶有化・脱神話化し、新たな自己物語を語り直すことを可能にするレトリックなのである――このように考えることができるのではないだろうか。
 1で挙げた事例を、身体感覚というレトリックに即した「語り直し」であるとみる視点に立った上で、あの事例からどのようなプロセスが抽出できるかを考えてみよう。まず、身体感覚を「もう一人の自分」からの有意味なメッセージとしてとらえることにより、対自関係(=自己自身と「もう一人の自分」との関係)に焦点を合わせる。次に、現在の自己物語が自分にフィットしていないために、苦痛を引き起こしていると認識する。つまり、これまでの自己物語を偶有化(脱神話化)する。そして最後に、身体感覚に即して、生きやすいような形で改めて物語を再構成し、語り直す。以上のような過程として理解することができよう。
 身体ないし身体感覚というレトリックは、この過程においていくつかの固有な「メリット」をもつと考えられる。
 (a)【「対自関係としての自己」の主題化が容易である】:身体感覚という表現/レトリックは、自己物語がフィットしている/していないという「実感」を具体的・実体的に表現することができ、結果的に「対自関係としての自己」を容易に主題化することができる(注6)。つまり、身体イコール自己ということの自明性が非常に強いために、身体感覚というレトリックを用いることによって、もう一つの自己(のあり方/自己物語)という通常ではイメージしにくいものが、具体性を帯びてイメージしやすいものになる。このような表現としての巧妙さがメリットの一つである。
 (b)【自己物語の変化を容認可能にする】:身体感覚というものは、必ずしもあらゆる時において一定不変ではないという了解があるものである。したがって、身体感覚を「私」自身の現れとしてみなすことにより、「私」自身=自己もまた一定不変のものではない、つまり自己物語の変化のような大きな変化も当然ありうる事態であるとして、変化それ自体を容認し正当化できるようになる。これが第二のメリットである。
 (c)【語り直される自己物語の内容がopenである】:「身体感覚に従う」ということは、新たにどのような自己物語を語り直すかということ、すなわち自己物語の内容についてまでは規定しない。つまり、ある特定のパターンの自己物語のみを新たな物語として定めてしまうことがない(=特定の内容の物語を「強制」することがない)ため、新たな自己物語がどのような内容のものであっても構わない。物語の内容を規定しないレトリックであるため、任意の内容の自己物語への移行に対応できるのである。これが第三のメリットである。
 以上のことから、次のように結論することができる。すなわち、身体感覚への言及は、文字通りに身体に真実性を認めているということよりも、むしろ、そうすることによって自己物語のrestoryingを実現する(ことを容易にする)ためのレトリックとして理解されるべきである。身体感覚とは、身体感覚そのものを単純に表現しているかもしれないが、それ以上にレトリックなのである。身体感覚を真実なものととらえよ、という言説は、同時に「肝心なのは言葉ではない」「言葉に頼りすぎるから、考えるから、本当の自分を生きられなくなっている」というように、「非言語的なものへの注目」をしばしば強調する[井上, 1989:17]。しかし既に明らかなように、身体感覚に真実をみる言説は、むしろ決定的に言語的な戦略なのである。

4 レトリックのレトリック性

 身体感覚への言及はレトリックとしてとらえられるということを、上で議論してきた。ただ、実際に自己物語の移行がなされる際には、「身体感覚への言及はレトリックである」という認識は当事者にはないかもしれない。つまり、身体感覚というレトリックのレトリック性は自覚されていないかもしれないのである。だがむしろ実際には、レトリックのレトリック性まで念頭に置いた上でレトリックを用いる、という水準こそが、人々のリアリティである可能性もあるのではないだろうか?
 次に挙げる事例は、最初の事例の語り手と同じ精神科医が、ワーキングウーマンの仕事をめぐって、インタビューに答えている言葉である:
  
 「…それで追い込まれたら、自分が病気だと自覚して、休養するのが一番です。悪いことがあったら、病気のせいにして自分を守るというのは、私は「SOS発信」と呼んでるんだけど、それはかなり大事な能力ですよ。…
 ――どうやって休養をとればいいんでしょうか。
 会社で疲れて適切な判断ができなくなって、目前の仕事が自分にとって大事なものか、枝葉末節のものかわからなくなっちゃうのが一番の問題でしょ。そうなったら思い切って、病気になっちゃっていいんです。…ちょっと追い込まれて、疲れたなと思ったら、気軽に会社を休む。休むときのいいわけは、例えば…病院に行けば「自律神経失調」のようなあいまいな診断名がたくさんあるから、それを利用してもいい。あるいは、いまインフルエンザが流行ってるなと思ったらそれを言えばいいし。まあ、なにを使ったっていいんですよ。できれば、「私には持病があります」と言っておくことですね。私は関節炎をよく使ってるんですよ。うっかり、ダブルブッキングしたときなんかは片方は関節炎ということでお休みです(笑)。そうやって持病を看板に掲げておけばいいわけに苦労しませんよ。
 ――そういうふうに休むことに抵抗のある人もいると思いますが。
 そういうことが気軽にできるようになるには、…「自分の能力の範囲内で充分に会社に貢献してる」と考えるようにすることですよ。つまり自己肯定というのは、自分のやってることは全部正しいって思うことじゃなくて、「私は自分の限界の中で、やれることをやっている」と思えることです。…そういう発想ができれば、自分に必要な休養はとれますよ。休養をとって、目前の仕事をかたずけることが自分の人生にとってほんとに大事かどうかをきちんと考えてみれば、結論はおのずと出てくるんです」[斎藤, 1992:102-3]。
  
 ここで、身体感覚というレトリックは、自らをいわば「無責任化」することに「応用」されている。この事例において、レトリックのレトリック性が明確に意識されていることは明らかである。そしておそらく、現代社会における非常に多くの「語り」が、実際のところ、このようにレトリックのレトリック性を意識しつつ自覚的に語られているのではないだろうか。そもそも、言説の表面だけからは、語り手がレトリックのレトリック性を自覚して語っているかどうかはわからない。したがって、1で挙げた二つの事例も、レトリックのレトリック性を自覚した上で語られているかもしれないのであり、むしろその可能性は大きいとさえ思われる。
 「それはレトリックである」というだけの指摘なら、おそらくそれは人々が百も承知のことを再確認することでしかない。ただ、そもそもレトリックが実効性をもつということ自体、レトリックが実際にレトリック以上のものであることを示唆しているのではないだろうか。レトリックがレトリックとして自覚されつつも、同時にレトリックにとどまらない真実性を帯びること(かつそのように真実性を帯びること自体が予想されていること)、そしてその真実さを語り手自身さえもどこか信じているところがあるかもしれないということ。このような複雑な生を、人々は生きているのではないだろうか。

5 身体感覚の「変容」?

 以上の議論から、現代社会論を論じるということ、そしてその中での身体というものの位置について、どのようなことがいえるだろうか。
 現代(社会)というものに、過去(の社会)との間の断絶・変容を見出し、その断絶ないし変容が、身体という、いわば直接的な感覚の水準の変容をもたらすほどまでに程度の深いものであると読み取る――そのような視線の存在を、本論文の冒頭で既に示唆した。だが改めて考えると、このことは現代社会を論じるという枠組自体が持っている、ある効果の現れだとはいえないだろうか。
 「現代社会」という問いの設定自体がもつ前提として、「現代」が他と区別されるということがある。そしてこの区別は、「現代」である以上時間的経過を伴った区別であり、したがって「現代」以前から「現代」への、ある「変化・変容のプロセス」として把握される。しかもそれは、「現代」をそれ以前から浮かび上がらせるものである以上、「現代的変容」でなければならない。その際にしばしば図式として用いられるのが、「リアルなもののヴァーチャル化」である。ここでいう「ヴァーチャル」とは、理工学系の語彙として用いられる、「虚像の・仮想の」といった意味である(注7)。つまり、多くの現代社会論は、結局のところ「現代社会においては、リアルなものの中でも、特にリアルだと思われているものまでもヴァーチャル化しつつある」といった議論になっているのではないだろうか。
 説明が与えられるべきものとして「現代社会」なるものが浮上してきており、あるいは「現代社会」を論じようといういわば「欲望」が先行して存在しているのであり、そこに「リアルなもののヴァーチャル化」という説明図式が導入されている――このような側面があると指摘できるのではないだろうか。「リアルなもののヴァーチャル化」という変化は、いかにも「現代社会的」であるからこそ、現代社会の説明に導入されている、という面もあるのかもしれない。
 このような「現代社会論」の構図の中で、身体というものはどのような位置にあるのだろうか。そこにおいて、身体は“リアルなものの典型”あるいは“リアルの中のリアル”というべきものとして扱われていると思われる。「現代社会論」と「身体」とのかかわりについては、この「身体イコールリアル」という位置づけと、「リアルなもののヴァーチャル化」という図式を組み合わせることによって、結局のところ多くは次の二つのパターンの議論になっているのではないだろうか。すなわち、
【第1のタイプ(「身体感覚の変容」論)】:「リアルなもののヴァーチャル化が全面的に進展する現代社会においては、身体感覚の変容という現象がみられるようになった。これは、ついに身体(という、中でも特にリアルなもの)までもヴァーチャル化しつつあることの現れなのだ」というもの。
【第2のタイプ(「alternativeとしての身体」論)】:「リアルなもののヴァーチャル化が全面的に進展する現代社会においては、身体感覚が真実なものとしての重視されるようになった。これは、すべてがヴァーチャル化していく中で、身体(というリアルなものの代表)が、残された「最後のリアル」として、これまで以上に重視されるようになったことの現れなのだ」というもの。
 いずれの議論にせよ、リアル/ヴァーチャルという二項対立図式が構成され、身体は(既にヴァーチャル化したか、「最後の砦」としてリアルさを保持しているかはともかく)その図式の「リアルなもの」の側に配置される。身体の特徴が「非言語性」であれ、「自然」であれ、「純粋さ」であれ、いずれにせよ「現代社会」化の進展に「抗して」残されている、または危機に瀕している(あるいは既に飲み込まれてしまっている)とされる「リアル」の側に、身体は置かれるのである。
 逆に言えば、多くの議論がこのような構図の圏内にとどまるほどに、「身体イコールリアル」という社会的な信憑は強いのだといえるのかもしれない。だからこそ、身体感覚はレトリックとしてかくも多様な広がりをもって用いられているのであり、上でみた「持病」の例のように、中にはそのレトリック性までも前提とした上でレトリックを用いる例もあるぐらいなのである。とはいえ、もちろん「身体感覚の変容」や「真実性の基準としての身体感覚」という言説がまったくの誤りである、とまではいえないだろう。ここでの主張は、あくまでもすべてを額面通りに受け取るべきではない、という程度のものである。本当に現代社会において身体感覚が変容しているのであれ、変容していないのであれ、いずれにせよ、身体感覚というレトリックは、きわめて実践的に様々な形で用いられているのである。しかも場合によっては、そのレトリック性を当事者が自覚した上で用いていることすらあるのである。「身体感覚の重視・変容」が実際に進行しているかどうかはともかく、身体に関する社会的な信憑は存在しており、その中でその信憑の存在を前提としたレトリックが用いられており、実際にある程度の「効果」を持ってしまっている、といえよう。
 したがって、ここで確認すべきことは、身体感覚に現れた現代社会的な変容の進展などではなく、このようなレトリックを現実的かつ実践的に必要とするような生を人々が生きている、ということである。一方に「身体=リアル」という把握があるリアリティをもって語られているということがあり、他方にその把握自体をレトリックとして(いわば脱神話化して)とらえる別のリアリティが存在する――この二つのリアリティの両方が同時に存在しているからこそ、レトリックのレトリック性を自覚した上でレトリックを用いる、ということになるのではないだろうか。
  
 ある自己物語から、別の自己物語への移行は、自己物語が神話性を帯びる以上、ある神話から別の神話への移行でしかない。自己というものの自明性があるリアリティを帯びているのと同時に、あらゆる自己物語は神話でしかありえないという認識も同様にリアリティをもっている。「身体イコール自己(自然、純粋、非言語…)」という知識の資源は、その中で生きる上で参照・利用されているのである。あるいは、このように言うこともできよう。「身体感覚こそが真実である」という言葉は、あるリアリティをもってわれわれの耳に響く。だが同時に、「身体感覚はレトリックである」という言葉も、また一定のリアリティを持っているのだ(レトリック性を自覚した上でレトリックが実効的に用いられている例があること自体が、この両方のリアリティの存在を示している)。おそらく、とらえるべき水準があるのだとすれば、それはこうしたリアリティの対峙する水準である。すなわち、レトリックを現実的かつ実践的に必要とするような生を人々が生きている、ということはどういうことなのか、そこで生きられている生(life)というものはどのようなものなのか――などであろう。「真実の幻想性」と「幻想の真実性」の両方を同時に感じながら、人々は生を営んでいる。もしわれわれが、現在生きているこの生について何かを考え始めようとするのならば、おそらくこのことは出発点となるべきものの一つであろう。

〈注〉

(1) 本論文は、1996年4月27日に筑波大学で開催された第8回筑波社会学会・定例研究会特別企画シンポジウム「現代社会と身体感覚の変容」での報告をもとにしている。企画者によるシンポジウムの趣旨は、『年報筑波社会学』第8号の該当箇所を参照のこと。
(2) 本論文の5での議論を参照のこと。
(3) 自己に関する以上の検討は、浅野智彦の議論に多くを依拠している[浅野, 1992, 1993]。
(4) ただし浅野の主張によれば、ジャージェン自身の自己物語論は自己の「二重の関係性」を充分に踏まえたものとはなっておらず、批判的に拡張する必要がある理論だという。だがここではその点については詳論せず、自己を論じる上でのこの理論の有効性にとりあえず注目することにする。
(5) この整理は浅野[1994, 1995]に依拠している。なお、このようなプロセスの整理は、「語り直し」を終えた後から事後的に構成された(=まさしく「語り直された」)ものであるといえ、実際の家族療法の場面では、より複雑なコミュニケーション過程がみられると思われる。
(6) 近年のセラピーや精神世界関連の言説においてよくみられる"innerchild"という概念/レトリックも、同様のメリットをもつものだと考えられる。innerchildとは、自分の中の「内なる子ども」つまり子どものような純粋さをもつ「本当の自分」を表す表現である(スタイネム[Steinem, 1992=1994:93-99]などを参照)。
(7) 通常virtualという語は、「事実上の・実質上の・実際の」といった意味が基本であるが、ここでは別の意味で用いている。仮想的な環境から受ける様々な感覚情報をシミュレートして与えることにより、その環境内での擬似的な体験を可能にするコンピュータ技術をvirtual reality(仮想現実感・人工現実感)と呼ぶが、virtualという語のそのような用法――「仮想の・虚像の」――をここでは念頭に置いている。
  
※ シンポジウム当日、およびその他の様々な場において、コメントを下さったすべての皆様に厚く感謝いたします。
  

〈文献〉

  • 浅野 智彦 1992 「自尊心」『ソシオロゴス』16:67-86.
  • ―――― 1993 「物語行為はいかにして「私」を構成するか」『年報社会学論集』6:49-60.
  • ―――― 1994 「自己物語はどのように人をとらえるか」『現代社会理論研究』4:1-12.
  • ―――― 1995 「家族療法の物語論的転回」『東京学芸大学紀要:第3部門 社会科学』46:125-134.
  • Bruner, Edward M. 1986 "Ethnography as Narrative," Turner, Victor W. and Bruner, Edward M. (ed.) The Anthropology of Experience, University of Illinois Press: 139-155.
  • 土井 隆義 1995 「身体の拡張、社会の縮減」『imago』6-8:122-136.
  • Gergen, Kenneth J. & Gergen, Mary M. 1983 "Narrative of the Self," Sarbin, Theodore R. and Scheibe, Karl E. (ed.) Studies in Social Identity, Praeger: 254-273.
  • Gergen, Kenneth J. & Gergen, Mary M. 1984 "The Social Construction of Narrative Accounts," Gergen, Kenneth J. and Gergen, Mary M. (ed.) Historical Social Psychology, Lawrence Erlbaum Associates: 173-189.
  • Gergen, Kenneth J. 1994 "Self-Narration in Social Life," Realities and Relationships, Harvard University Press: 185-209.
  • 芳賀 学 1992 「若者の体感志向と現代宗教ブーム」『東京学芸大学紀要:第3部門 社会科学』43:91-102.
  • 芳賀 学・弓山 達也 1994 『祈る ふれあう 感じる』アイピーシー.
  • 井上 芳保 1989 「ルサンチマン処理装置としての心理療法」『臨床心理学研究』27-1:3-26.
  • ―――― 1992 「身体性の社会学の必要性と可能性」『社会情報』(札幌学院大学社会情報学部)1-2:51-65.
  • ―――― 1993 「情報社会における身体性メッセージ」『現代社会学研究』6:81-104.
  • Lowen, Alexander 1985 Narcissicm, Macmillan. =1990 森下伸也訳『ナルシシズムという病い』新曜社.
  • Mead, George Herbert 1934 Mind, Self, and Society, University of Chicago Press. =1973 稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳『精神・自我・社会』青木書店.
  • 森川 那智子 1991→1994 『みんな、やせることに失敗している』集英社文庫.
  • 荻野 美穂 1993 「身体史の射程」『日本史研究』366:39-63.
  • O'Neill, John 1985 Five Bodies, Cornell University Press. =1992 須田朗訳『語りあう身体』紀伊國屋書店.
  • 斎藤 学(編) 1991 『カナリアの歌(上)(下)』どうぶつ社.
  • ―――― 1992 「めげずにしぶとく働く法」福沢恵子『ワーキングウーマンのサバイバルガイド』学陽書房:95-103.
  • 島薗 進 1992 『現代救済宗教論』青弓社.
  • Steinem, Gloria 1992 Revolution from Within, Little, Brown and Company. =1994 道下匡子訳『ほんとうの自分を求めて』中央公論社.
  • Turner, Ralph H. 1976 "The Real Self," American Journal of Sociology, 81-5:989-1016.
  • White, Michael, and Epston, David 1990 Narrative Means to Therapeutic Ends, W. W. Norton & Company. =1992 小森康永訳『物語としての家族』金剛出版.
  • 山田 太一・見田 宗介 1995 「オウムを生んだ母子関係の力学」『大航海』5:72-87.



    久木元真吾のホームページへ