久木元 真吾「「死と金銭の交換」の隠蔽と露呈」
「死と金銭の交換」の隠蔽と露呈――19世紀アメリカ合衆国における生命保険――
『相関社会科学』(東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻)第7号(1998年2月)掲載(pp.2-21)
1 生命保険・死・金銭
後に「生命保険の父」とまで呼ばれたElizur Wrightは、19世紀後半のアメリカ合衆国で保険監督官(insurance commissioner)を務め、生命保険業の確立期に大いに活躍・貢献した人物である。Wrightは1844年にロンドンを訪問した際に、ある光景を目撃して衝撃を受ける。そこでは、年老いた人々がもつ古い生命保険証券が、投機家たちへ「競売auction」されていたのである。保険料を支払えなくなった貧しい老人たちは、台の上に立って自らの保険証券を売り、投機家はその容姿から余命を判断して、その証券を値踏みする。買い取った投機家は、代わりに保険料を保険会社に払い続けながら、老齢の被保険者の死亡時までその保険証券を保持し、最後に死亡保険金を受け取る。ある人の生命保険証券が、その人とはまったく無関係な第三者に売却され、その第三者はいわば被保険者のの早期の死亡に「賭ける」形になっているのである。Wrightはこの光景にショックを受け、彼がかつてアメリカで見た奴隷の競売と同じくらいに不当なことだと考えた。このようなことが行われていた理由の一つは、当時のイギリスでは保険を解約しても保険契約者に対して一切解約返戻金が支払われなかったからである。この目撃をきっかけにして、生命保険がそのあるべき形で営まれるように、帰国後Wrightは不可没収法の制定をはじめとするさまざまな仕事に力を注ぐことになる(Wright and Wright [1937:222-3])。
この例では、いわば人の命/死の競売がなされているともいえる。あくまでもこれは19世紀の、しかも法整備の不十分な状態でのできごとである。だが実は、これとほぼ同じ形式をとるビジネスが、今日のアメリカ合衆国において合法的に存在している。
アメリカ合衆国には、生命保険証券の買い取り会社(viatical business)というものが存在する(Koco [1991]、阪口[1996])。買い取り会社は、医師から余命が2年未満と診断された末期患者の生命保険証券を、死亡保険金の60%から85%の価格で買い取り(買い取り価格の対保険金比率は、余命が短いほど高くなる)、患者が死亡するまでの間、患者に代わって保険会社に保険料を支払う。その代わりに、患者が死亡したときには死亡保険金を全額受け取るのである。1988年にこのような業務を最初に始めたLiving Benefits Inc.によれば、顧客が末期患者なので保険金受け取りに関してリスクが少なく、患者側にとっても必要な時に保険金の一部を受け取れる利点があり、保険契約以外には固定資産しかもたない人や、医療費の支払いなどに窮している人にとって最適のものだという。この生命保険の買い取り業に対して、当初アメリカ生命保険協会は「死に経済的利益を求める残忍な商法」として非難し、ある大学の保険学の教授は「末期患者からの搾取」であって「生命保険契約者の早期の死亡から利潤を得ようとするもの」であると批判した。だがこうした批判に対して、会社側は、この業務が不治の患者に奉仕する人道的な商売であり、患者はむしろ喜んでいると反論している。実際、業績の成長はめざましく、1993年には保険買い取り会社協会が設立されるまでになったという(Schwartz [1989]、日本経済新聞[1989][1993]、阪口[1996])(註1)。さらに、このような保険証券の買い取りを仲介するブローカー業もアメリカには存在する。保険証券を早期に転売したい末期患者と、その証券に「投資」したい投資家との間に立ち、患者の情報(生命保険の種類・病名・余命・保険金の金額など)を投資家に公開し、投資家はどの患者の保険が「有利」(=早期に保険金が手に入るもの=早期に死亡する患者の保険)かを考え、投資する(=その患者の早期の死亡を見込んでその人の保険を買う)というものであり、まさにWrightが目撃したものと実質的にほぼ同じものである。
Elizur Wrightが目撃したイギリスの「競売」、そして現代アメリカ社会に登場した生命保険買い取り会社と仲介ブローカー業。こうした例にみられるのは、生命保険という制度を介して、露骨なまでに「死と金銭の交換」がなされている――少なくとも、そのように見える――ということである。これらの例を批判したり、懸念を表明している人々は、上で引用した言葉の通り「死から経済的利益を得ること」を問題にしているのである。
しかし、「死から経済的利益を得ること」が問題であるのならば、生命保険というものそれ自体はどうだろうか。生命保険においてなされていることは、まさに「死と金銭との交換」であり、「死から経済的利益を得ること」ではないのだろうか。そもそも、「死と金銭との交換」ということは、生命保険という制度の中核的な要素だとさえいいうるのではないだろうか。Wrightやアメリカ生命保険協会の当局者などは、生命保険証券の売買は批判しても、生命保険という制度それ自体を批判・否定したりはしない。だが、彼らが生命保険証券の売買に対して加えている批判は、そのまま生命保険という制度そのものに対する批判にもなりうるものなのである。そして事実、以下にみるように19世紀のアメリカ合衆国では、こういった批判が生命保険自体に対してなされたのである。
もとより、ここでの関心はそういった批判の正当性を問うことにあるわけではない。ここで試みるのは、生命保険という制度がこういった議論や応酬を生み出してしまうさまを描き出すことである。生命保険という制度が、死と金銭とをある形で結びつけてしまうこと、そのことが(以下にみるように)「人の生命を金銭に換算してしまう」とされたり、「道徳」や「愛情」とされたり、あるいはその両方とされるなど、さまざまな語りを産出しつづけていること――こういったことの記述である。
ここでは、こうした語りが最も集中的かつ典型的に生み出されてきた事例である、生命保険という制度自体がその輪郭と社会的な意味を確立していく時期――19世紀中葉から後半にかけてを中心とする――のアメリカ合衆国における諸言説を考察の対象とする。この時期に出版された生命保険業界誌・ビジネス誌、当時の生命保険業界で活躍した人物の著書などの諸言説が、具体的な検討の素材となる。
あらかじめ、この時代のアメリカ合衆国における生命保険について少しふれておく。統計学的な基礎に基づく近代的な生命保険業が最初にはじまったのは、18世紀のイギリスにおいてであり、アメリカ合衆国では諸説があるが19世紀前半のことであった。だがしばらくはあまり発展することはなく、生命保険の存在は小さなものにすぎなかった。ある生命保険会社の最初の取締役は、初期の生命保険の受容について「当時、自らの生命を保険にかけることは、多くの善良な人たちから不道徳(wicked)なことだと考えられていた」と述べている(註2)。この言葉のとおり、生命保険はその道徳的な面を中心に批判や反対を浴び、その是非をめぐって数多くの言説が生み出されていったのである。そうした中で、周期的な景気後退などを経ながらも、やがて19世紀後半から20世紀初頭にかけて、生命保険はアメリカ合衆国において著しい普及と規模の拡大を進めていく。Boorstinが述べているように、「保険が民主的で普遍的な制度になったのは、19世紀中葉以降の合衆国においてであった。大量生産の民主的な保険…は、南北戦争後の一世紀間に現れたアメリカ文明の所産だった」のである(Boorstin [1973:174=1976:(上)202])(註3)。ここで検討の素材として扱う諸言説も、この動きに伴ってその量を増してきたものである(註4)。
ここで、本論文とその主題や対象について深く関係する諸研究をごく簡単にみておこう。アメリカ合衆国の生命保険の歴史についてはStalsonの大著があるが(Stalson [1969=1981-2])、これはマーケティング技術の発展という要因を重視するものであり、問題意識や叙述の仕方において、本論文のめざすところからはやや距離がある。Zelizerの研究(Zelizer [1979=1994])は、19世紀のアメリカ合衆国における生命保険の発展が、Stalsonをはじめとして主に経済学的・経営学的な要因に還元して説明されることが多いのに対し、非経済学的な要因、すなわち社会的・文化的な要因も含めて検討する必要があることを主張するものである。この研究は本論文にとってもきわめて示唆の多いものであるが、決定要因の複数化の必要を強調するあまり、分析の軸が曖昧な議論となってしまっている。本論文は、何らかの要因との関連を見出すことよりも、これまでの研究では十分に検討されてこなかった、語られた言説やそのロジックに照準した考察を試みる。
本論文の議論は以下のように展開する。最初に、生命保険という制度が「死と金銭との交換関係」の設定を核心的な特徴にもつことを確認する。そして、生命保険が当時のアメリカ社会に登場したとき、生命保険が死と金銭との交換関係を設定してしまうということが、様々なロジックによって隠蔽され、そのことによって生命保険の社会的な正当化が試みられたことを概観する。しかし興味深いことに、その隠蔽それ自体によって、生命保険が死と金銭との交換関係を設定していることが結果的に露呈してしまう――死と金銭との交換が、現実に社会において何の問題もなくなされていることが浮かび上がってしまう。この隠蔽と露呈の中で、生命保険という制度が語られ存立していることを描き出す。
2 死と金銭の交換
「生命保険という語は誤った呼称である。…これには、人間の生命に値段をつけるという含意がある。しかし、それはわれわれの分際のことではない。われわれは、生命が本質的に神聖であり、測ることのできないものであること、生命が、社会的・道徳的・宗教的に、考えられる全ての評価を超越したものであることを認識している」(David N. Holwig, The Science of Life Insurance, Boston: Provident Life and Trust Co., 1886, p.4: Zelizer [1979:62=1994:82])。
生命保険という制度とは、一体どのようなものなのだろうか? あるいは、上の引用が述べるように、生命保険という語自体がもしも「誤った」ものなのだとすれば、このように問うべきかもしれない。すなわち、生命保険という名のもとで、一体何が繰り返されているのだろうか?
生命保険という制度は、人の死に対して保険金が支払われる可能性をつくりだす。だがこのこと自体、そもそも奇妙なことではないだろうか。一体、なぜ保険金が支払われねばならないのか?
保険という制度は、何らかの偶発的な事故に対して金銭で「償う」制度であるといえる。そして生命保険は、人の偶発的な死を金銭で償うのである。これはどこか奇妙なことではないだろうか。というのは、ここでは「死は償われるべき何かである」ということが前提とされているからであり、さらにその上で、それを「金銭で」償うことになっているからである。他の何かで償うことや、あるいは「死とはそもそも償えないものである(だから償わない)」ということは考えられていないのである。
ここにうかがえるのは、「死と金銭の交換関係の設定」ということである。「償う」という表現は間接的な印象を与えるかもしれないが、実際にここで展開されていることは、「死んだら、お金をもらえる」という直接的な事態である。特にこの金銭のやりとりが、実質的な関係のある二者の間でなされるのではなく、保険契約以外にはいかなるつながりの契機をもたない無関係な二者の間のものであるがゆえに、その直接性は一層明らかであるともいえよう。生命保険は、たとえ統計学的なロジックやさまざまな読み替えを介しているとしても、死と金銭の間の交換関係を現実に設定してしまう制度なのである。たとえ条件つきではあっても、死と金銭とを交換可能であると考えるという前提が、そこにはあるのだ。死と金銭の交換関係の設定――この点こそが、生命保険の名においてなされていることの核心であるといえるのかもしれない。
ここで、たとえばローマ法の「自由人の生命は金銭的価値をもつことができない」というよく知られた原則を想起することもできるかもしれない。ローマ法の影響によるというわけでは必ずしもないが、当時のアメリカ合衆国の社会においても、「死と金銭との交換」は大手を振って認められることではなかった(註5)。したがって、あらゆる場合に、あらゆる形式の「死と金銭の交換」が生命保険であるとされたわけではない。実際には、ある限定された場合の、限定された形式の「死と金銭の交換」のみが生命保険の名にふさわしいとされた。逆の言い方をするならば、あるタイプの「死と金銭の交換」ならば、それは生命保険であるとして正当化可能なのであり、少なくともここで検討するアメリカ合衆国においては、実際にそのような正当化を通じてあるべき「死と金銭の交換」への限定がなされていったのである。
もちろん、生命保険という制度の登場と発展の背景には、統計学的知識の確立や近代家族像の成立など、考慮すべき諸点が数多くあることはいうまでもない。だがここでは、そうした生命保険の確立の条件となったものに注目するのではなく、生命保険の中核とされた「死と金銭の交換」という側面に照準し、それを言説の水準において考察する。生命保険は、いかなる事情があったにせよ、「死と金銭の交換」といういわば「パンドラの箱」を開いてしまったのである――あるいは、開いてしまったと考えられたのである。
実際に、アメリカ合衆国で19世紀後半に語られた生命保険への批判の最も重要な部分は、生命保険が死と金銭との交換関係を設定してしまうことへの不安や危惧に基づくものであった。「女性たちの中には、生命保険というものがまるで夫の死によって儲けを得ることのように思える人もいるという。またある女性たちは、もしも夫が死ぬようなことがあって、生命保険証券からの収益金が自分たちに支払われるのならば、まるでそれは「血讐金」を受け取るかのように思えるという。そして、夫の将来の余命をかくもさもしく計算することなどには決して関わらないつもりだと言う人たちもいる」(William T. Standen, The Ideal Protection, New York: U. S. Life Insurance Co., 1897, pp.44-5: Zelizer [1979:46=1994:61])。妻の立場からは、さらに次のような生命保険への反対の声があった。「その1セント1セントが、あなたの生命の値段であるように私には思える。…あなたの死によって金を受け取ることができると考えたりしたなら、私は見さげはてた者になってしまうだろう。…もしあなたが保険を契約すれば、次の日にはあなたが死んで家に連れてこられるかもしれないと私には思える」(Our Mutual Friend, New York: Equitable Life Assurance Co., June 1867, p.3: Zelizer[1979:50=1994:66-7])。宗教界からも、生命保険を批判する声が上がった。宗教界のある監察官は、財産に対する保険については、「神によって一つの機構へ凝縮された、福音から出た原理」であるとしながらも、生命保険に対しては、「人は羊よりもすぐれたものではないのか? …人は神に似せてつくられた存在である。…われわれは…良心を授けられた人が商取引の材料にされることを…望まない」として批判した(George Albree, The Evils of Life Insurance, Pittsburgh: Bakewell and Mathers, 1870, p.17: Zelizer [1979:74=1994:97])。
こうした批判に対して、生命保険会社や生命保険業界誌に代表される、生命保険を支持する側は、さまざまな反論を通じて生命保険の正当化を試みた。以下では、この正当化の際に持ち出されたさまざまなロジックの検討を通じて、生命保険というものにおいて、「死と金銭との交換関係の設定」についての議論がなされる過程を描き出すことを試みる。
3 隠蔽のロジック
19世紀のアメリカ合衆国において上がった生命保険に対する疑念や批判の声に対し、生命保険会社の出版物や保険業界誌などには、生命保険を支持する立場からの、さまざまなロジックによって生命保険を正当化する言説が現われはじめた。
とはいえ、生命保険が「死と金銭との交換関係を設定してしまうこと」自体を正面から容認するわけではない。むしろ大半の言説においては、「死と金銭の交換」という面は隠蔽される。生命保険を正当化するさまざまなロジックを持ち出して、生命保険の有用性や価値を強調することによって、「死と金銭の交換」という面を隠蔽しようとするのである。つまり、「何らかのポジティヴな価値を生命保険が可能にし、実現しうるがゆえに(あるいは、何らかのネガティヴな事態を生命保険が回避可能にしうるがゆえに)、生命保険は正当なものである」というロジックである。直接「死と金銭の交換」について論じるよりも、生命保険それ自体がポジティヴな性格をもつものであると語ることを通じて、隠蔽するのである。
ここでは、そうした「死と金銭との交換関係の設定」を隠蔽し、生命保険を正当化するロジック――「隠蔽のロジック」――を概観する。これらのロジックは相互に関連するものであるが、ここでは主要ないくつかのタイプへの整理を試みた。すなわち、勤勉と倹約、貧困への転落の回避、扶養義務、利他性、被保険利益というロジックである。
【勤勉と倹約】
生命保険に対してなされた批判として、それが人の命を対象とする賭博(に相当するもの)であるというものがある。生命保険について早い時期に書かれたある本には、「多くの人にとって…生命保険は、賭け事や偶然の原理に訴えるものに似ており、賭博の性質を帯びているという道徳的根拠から…人の生命を保険にかけるという提案は…反対すべきものと思われている」(Charles Norton, Life Insurance, 1852, p.63: Zelizer [1979:68=1994:88])とある。つまり、生命保険が批判されるべき理由として、人の生命を対象とする賭博と類似しているからというのである。「なぜ生命保険への加入を躊躇するのか? 迷信深い人が多いのである。多くの人は、生命保険があらかじめ備えることではなく、あたかも投機であるかのように感じている」(Hunt's Merchants' Magazine [1865:229])。
こうした賭博性への批判は、被保険者の死亡時に多額の死亡保険金が一度に支払われることへの危惧とも関連している。そのことが、勤勉や倹約という道徳に悪影響をもたらしかねないことが問題視され、批判されたのである。「火災や海上のリスクへ適用するとき、[保険は]一般的に十分に安全である。というのは、これらは、誰しも自ら招こうとはしない偶然事故であり、それについての保険は、一般的になお一層人々を注意深くさせるだろうからである。しかし、生命保険について現在語られていることの多くは、一切の起こりうる災いへの偉大な万能薬であるとか、俸給や定収入によって生きる人々すべての頼りになるものだとかいったものであり、倹約と勤勉以外のものへ頼ることを促し、こうした社会の根本的な徳を弛緩させ腐敗させることを企んでいる」(New York Times, Feb. 23, 1853: Zelizer [1979:32=1994:43-4])。保険金を"easy money"だとみるこうした立場からは、むしろ貯蓄こそが推奨されるべきものだとされる。「妻子の将来の利益のために、自分の生命に対する保険を買おうとして働く男は、現在の自分自身の豊かさのために働いていたならば感じたであろう活力を発揮することができない」;「財産が徐々に蓄積されることは、突然に財産を手に入れることよりも大きい道徳的な効果をもたらす」(Johnson [1851:672, 675])。
こうした批判に対してなされたのは、生命保険こそが勤勉と倹約という道徳を育成するものだという反論である。たとえば、American Life Insurance and Trust Co.は1861年に発行した小冊子の中で、生命保険は人々に倹約と勤勉の習慣を重視させ、貧困や犯罪を減少させるものだと主張している(Stalson [1969:336=1981-2:435])。「[生命保険は]節約、勤勉、そして将来への配慮と用心の習慣を奨励するものである」("The New York Times on Insurance," Insurance Monitor, 1, 1853: Zelizer [1979:84=1994:110])。そして保険金も決して"easy money"ではなく、「生命保険は、元気旺盛だが1ドルも遺産にのこすゆとりのない若者に、翌日死んだ場合でも、数千ドルの遺産をのこす力を与えるものなのだ」(Wright, 10th Annual Report, 1865: Wright [1932:303](註6))として理解されるのである。
【貧困への転落の回避】
19世紀のアメリカ合衆国においては、勤勉と倹約の道徳が賞揚されたのに対して、貧困状態にあることは、そうした道徳の欠如の結果としてみなされるようになっていた。貧困への転落は、きわめて否定的なものとしてまなざされていたのである。「勤勉に働くつもりがあるのなら、真面目で五体満足な者が長らく仕事に事欠くことなどあるわけがない。彼ら自身が愚かであったり悪習を持っていたりするのでなければ、彼らがずっと貧しいままであることなどありえない」(19世紀の改革家の言葉:Trattner [1974:51=1978:51-2])。貧困それ自体よりも、その原因とされるところの、勤勉さや労働への主体性の欠如などの「道徳的な水準の低さ」こそが「問題」視されたのであった(註7)。したがって貧困という「問題」に対して、慈善の名のもとに単純に物資的な援助を行うことは正しい対処ではないとされる。「真の慈善」は、彼らに倹約と勤勉という道徳を身につけさせることによって、自ら進んで労働に励む主体にすることなのである。
そして、生命保険を支持する側は、生命保険はまさにこのような効果をもつものだと主張した。なぜなら生命保険契約を結んだ者は、保険料を支払うために日々倹約と勤勉に励むようになるだろうし、そうする中で道徳的向上がもたらされるだろうからである。「生命保険を慈善の別名とみる者もいるが、この二つのものははっきりと区別される。生命保険は自尊心と自立心を生み出すものであるが、慈善はその両方を破壊してしまう。そしてしばしば、施しを与える相手をかえって貧困に陥れてしまう」("The Moral Duty of Life Insurance," Insurance Monitor, 11, 1863, p.183: Zelizer [1979:96=1994:123])。不道徳を意味する貧困への転落を避けるためには、他の何かに頼るのではなく、自助的であること、すなわち生命保険への加入こそが不可欠であるとされる。「…もし家長が、人生最悪の災いと不運から自分の妻子を守ることを望むのならば、世間を信用してはならない」(Elias Heiner, "An Examination and Defence of Life Insurance," United States Insurance Gazette, 11, 1863, p.146: Zelizer [1979:95=1994:122])。もし生命保険をかけなかったならば、まさに「悲惨」な貧困への転落が待ち構えているのである。「[生命保険に入らないような]怠惰で先のことを考えない父親が…将来を見通すことがもしもできるならば、自分の子どもたちが家から家へとパンの施しを乞う姿や、妻が…飢えの苦しみから免れるために、わずかばかりの収入を求めて悲しげに黙々と働いていたり、泣き叫ぶ幼子たちをなだめたりしている姿を見ることになるだろう。いや、それどころか、重荷に耐えかね、疲れ果てて死んでいく妻の姿や、孤児になった子どもたちが、世間の冷たい慈善やそれ以上に冷たい親類のあわれみにすがっている姿が見えるかもしれない。これは決して誇張して言っているのではない」(Life Insurance Leaflet, Philadelphia: American Life Insurance and Trust Co., 1861: Stalson [1969:339=1981-2:438])。
そして、このように語られる中で、問題にされているリスクは、貧困への転落のリスクになっていることがわかる。焦点は死から貧困への転落へとシフトしており、生命保険は死そのもの以上に「貧困への転落を防ぐもの」とされている。まさにここで「死と金銭の交換」が隠蔽されているのである。
【扶養義務】
「隠蔽のロジック」としてより中心的だったのは、家族に関するものである。生命保険は、夫=父には他の家族成員を扶養する責任・義務があるという扶養義務の理念と結びつけれられ、夫=父の妻子に対する配慮として語られるのである。
「一家の主人の、将来についての慎重さと深い思慮は、家族の人々の記憶の中に長く残る思い出となるだろうし、家族は生きている限りずっと愛慕と感謝の念をもちつづけることになるだろう」(A Treatise on Life Insurance, Mutual Life Insurance Co., 1844: Stalson [1969:210=1981-2:273])。「妻が夫の生命にかけられた生命保険契約の保険金を受け取るとき、彼の真の、そして忠実な愛が墓場から届いたのだ」(Standen, The Ideal Protection, 1897, p.46: Zelizer [1979:59=1994:78-9])。
そしてそのような配慮をすることは、賞揚されるべき行為であるのみならず(そうであるがゆえに)、夫=父が果たさねばならない義務と化す。しかも、自らの死後についても継続する義務としてである。「およそ家長たる者は、その死後に、愛する者が生きてゆけるために相応の準備をしておかねばならない。このことは率直に認められており、こうした準備を行うことをたまたま免除されるということはありえないのである」(Life Insurance, The Manhattan Life Insurance Co., 1852, p.19: Zelizer [1979:56=1994:74])。義務である以上、もしもそれを果たせない場合は非難を――しかも道徳的な非難を――浴びることになる。「社会は、生命保険証券がこんなに安く買える時代に、家族を衣食にも事欠く状態で残して死ぬ男を、準備を怠ったという点で、愚かであり罪深いとみるようにまでなってきた」("Life Insurance," United States Insurance Gazette, 27, 1868: Zelizer [1979:56=1994:75])。かくして生命保険への加入自体が、夫=父として当然果たすべき道徳的義務として語られるようになるのである。「[生命保険への加入は]家庭人としての義務(a domestic duty)である。なぜなら、資産を持たない人々が家族を将来の困窮から守る方法は、それ以外にないからである」(What the Public Ought to Know about Life Insurance, Mutual Life Insurance Co. of New York, 1858: Stalson [1969:275-6=1981-2:359])。こうした義務を果たすことこそが問題なのだとして、家族の長たる男性の責任に焦点を合わせることにより、「死と金銭の交換」ということはひとまず隠蔽されるのである(註8)。
【利他性】
このように、家族の自助のための制度という相貌を帯びていく生命保険であるが、他方でそれはきわめて「利他的」なものであるとされた。「財産の保険は、単なる利己的な保険にすぎない。…生命の保険は、利己的な保険の対極にあるものである」(Insurance Journal, 10, 1882: Zelizer [1979:110=1994:141])。その理由としては、たとえば次のようなことが語られた。「自分自身を対象とし目的とするような行為は、利己心を働かせそれを強めるものであり、たびたび繰り返されることによってまったくの利己的な性格を形成する。生命保険においては、いま目の前にある利益を犠牲にして他者のための未来の利益が購入されるのであり、しかもその利益を被保険者自身は享受することができず、当人の死後にはじめて実現されるのである」(Hunt's Merchants' Magazine [1865:390])。
したがって生命保険というものは、「道徳的な存在としてのその人の品格を高め、その人の性質を高尚なものとし、そして彼を人々にとって一層慈悲深く、友人にとって一層気前よく、親族にとって一層愛情深い人物にする」ものであり、「このような犠牲以上の配慮は他には考え難い」(Hunt's Merchants' Magazine [1865:390])。家長たる夫=父の、自らはその恵みを受けることのない行為――生命保険はこのような面をもつために、他の種類の保険よりも利他的であり、重要な価値を帯びているとされたのである。
【被保険利益】
以上に挙げてきた例は、どれも生命保険に何らかの価値を新たに見出して正当化するというものであった。その限りにおいて、「死と金銭の交換」という点についての危惧に対して、正面から答えるものではなかったともいえる。しかし、次にみる「被保険利益」という概念/ロジックは、「死と金銭の交換」への危惧に対して正面から一定の回答を試みているという点で、これまでの「隠蔽のロジック」に比べてより厳密で論理的なものとなっている。
被保険利益(insurable interest)は、今日でも特に保険法学においてはきわめて重要な位置にある概念である。被保険利益とは、「[保険されているところの]その物や人が傷つけられたり失われたりすることによって、被保険者がその物や人について持っている経済的な利害関係が影響を受け、なんらかの損失を蒙り、または費用の支出を余儀なくされ、あるいは当然期待し得べき利益が失われ、ないしは経済的な責任を負担しなければならなくなる」(國崎[1977:19])――そのような利害関係のことをいう(註9)。
人命に対する賭博と生命保険の類似という危惧・批判があったことは上述したが、これに対する正面からの論理的な議論が、この被保険利益というロジックである。被保険利益の有無によって、人の生命に関する賭博と(正当化されうるような)生命保険との峻別が可能だというのが、その骨子である。「保険金の受け取り手が、被保険者の死亡によっては金銭上の損失を一切被らず、彼の生命と労働から何も期待していないのならば、生命保険は…正当化の余地のない賭博である」(Wright [1876:148])。こう述べているWrightは、冒頭で紹介したイギリスでの生命保険証券の「競売」を目撃したあのElizur Wrightである。彼の考えでは、生命保険は「人類にとって利益の可能性をもたらすもの」であり、「善に対する全き可能性をもつものである」が、しかし同時に「悪に対してもほとんど無限の可能性をもたらしえた」ものである(Wright and Wright [1937:221])。悪に対する無限の可能性とは、生命保険が人の命に対する賭博にもなりうるということであるが、被保険利益概念を導入することによって、この「悪に対する無限の可能性」を排除することが可能になる。つまり、その人の死によって実際に経済的な損失を被る人だけが、保険金の受け取り手たりうるのであって、そのような関係にない人同士が被保険者と保険金の受け取り手になることは、賭博と同じであって認めることはできない、というのである。このことをメルクマールとすることによって、生命保険は賭博ではないと主張することが論理的に可能になる。たとえば、冒頭のイギリスの「競売」を考えるならば、保険証券を買おうとしている投機家は、被保険者の老人たちに扶養されていたりするわけではない以上、彼らに対して被保険利益を有しておらず、したがって老人たちの保険金を投機家が受け取るのは容認できないということになるわけである。
Wrightが被保険利益概念を自らの議論の重要な位置に据えたことの背景には、当時進行しつつあったアメリカ社会の変容に対する認識があった。「昔は、人の遺産や収入源は、…その多くを彼とともに埋葬してしまうことのできない性格をふつうもっており、死後も遺族を養いつづけるものであった。しかし、知識と機械が一層広く普及したことによって、自らの精神――しかもきわめて生産的な――のみが遺産であるような人々が増加したために、父を喪った人々の生計は、あまりにもしばしば父と共に埋葬されてしまう」(Wright, 4th Annual Report, 1859: Wright [1932:2])。この時代は、アメリカ合衆国において産業化と都市化が急速に進んでいった時期にあたり、産業構造の変化に伴い農民や自営業者の対労働人口比率は大幅に減り、かわって商店の店員・会社の事務職員・役人・教師など、後年ホワイトカラーと呼ばれることになる、他者に雇用された新中産階級が生まれつつあった(有賀[1993:193-4])。こうした社会の変化の進行を背景に、Wrightは「われわれの高度に人工的な社会においては、家族内の働き手が死亡すれば、親が死んだというにとどまらず、富も同時に死ぬ」(Wright, 8th Annual Report, 1863: Wright [1932:174])という認識を強めていったのである。「どの家族についても、その収入や財産は近代化以前の状態から著しく増えた。しかしこのような生活全体は、全員の生命よりもただ一人の生命に、特に家族生活を始めたばかりのときには依存しており、その人の死亡はかつてなかったような苦難をもたらすのである」――したがって生命保険は、「今日の文明の必需品」(Wright, 10th Annual Report, 1865: Wright [1932:303])なのだとされる。生命保険が潜在的に賭博と同じ要素をもっていることを認めながらも、Wrightが被保険利益概念を導入してまで生命保険の正当性を認めたことの背景には、このような彼の認識があったのである。
だがこのような背景のもとに語られた被保険利益論は、厳密に検討するならば、経済的な利益の存在を要求するために、逆に生命保険それ自体をあらゆる場合において金銭的・経済的な言語の圏内にとどめることになる。この点については、次節で論じることにしよう。
被保険利益論は、生命保険という制度が「死と金銭の交換」そのものではないかという危惧・不安に対して、別のポジティヴな価値を外部から持ち出すのではなく、内在的なロジックにおいて人命についての賭博との区別を論理的に明確に示そうとしたという点で特徴的である。しかしその果たした(あるいは、果たすことを期待された)機能は、やはり「死と金銭の交換」の隠蔽であることには変わりない。重要なのは、明々白々な「死と金銭の交換」の実践である「競売」のような例と生命保険とが、まったく別のものであることを示しその区別を強調することなのである。そのことによって、生命保険もまた「死と金銭の交換」であるという可能性が隠蔽される。被保険利益論もやはり「隠蔽のロジック」なのである。
以上みてきたように、生命保険は不道徳な面をもつものとして危惧され批判されたが、生命保険を支持する諸言説の多くにおいては、実は生命保険は不道徳どころか、さまざまな点で道徳的で価値ある制度であること、あるいは不道徳な行為とは区別されうるものであることが強調されている(註10)。そして、道徳的であること・不道徳でないことを強調することによって、「死と金銭の交換」という面は隠蔽され、生命保険の正当化が試みられたのである。
だがここで確認すべきなのは、生命保険が「死と金銭の交換」であること自体を積極的に否定するロジックは出されていないということである。「死と金銭の交換」であることはまさに「隠蔽」されてきたのであって、「否定」されてきたのではない。上述してきたさまざまなロジックは、生命保険に別のポジティヴな価値を見出していわば論点をずらすものであったり、あるいは類似したネガティヴなものとは厳密に区別されうるのだと主張するものであって、その限りにおいてどれもまさに「否定のロジック」ではなく「隠蔽のロジック」だったのである。
したがって、否定しつくしたわけではない以上、隠蔽しようとしていた「死と金銭の交換」という側面が垣間見えてしまうことも大いにありうる。事実アメリカ合衆国において、生命保険は、実際には「隠蔽」に対する「露呈」を常に伴っていたのである。そのことを次節でみることにしよう。
4 露呈 ―― 生命の金銭的価値
以上でみてきたように、さまざまなロジックが動員されて、生命保険という制度が死と金銭との交換関係を設定してしまうことを隠蔽しようとする。しかし、興味深いことに、そうした「隠蔽のロジック」による隠蔽は、必ずしも完全に成功裡に成し遂げられているわけではない。むしろ実際には、隠蔽のロジックが働くことによって、隠蔽されたはずのことがかえって見えてきてしまっている。隠蔽しようという試みが、かえって隠蔽の対象の露呈を帰結しているのである。その例となるのが、前節の最後に検討した被保険利益論である。
被保険利益論が、経済的な利益の存在を要件とするために、逆に生命保険それ自体を経済的・金銭的な言語の圏内にとどめることになることには既に少しふれた。そこでは、被保険利益の存在という経済的・金銭的な理由こそが、生命保険を正当化しうるとされた。逆にいえば、そうした経済的・金銭的な利害関係を見出せない場合は、他の理由――たとえば夫=父の愛情などの、非経済的なもの――があったとしても、その正当化は不可能だということである。次の主張は、そうした考えに基づいている。「父親は彼の子の生命を保険することはできない。親類や友人同士で、一方が他方の生命を保険することは、一方が相手の生命に金銭的な利益を有するか、相手の死により何らかの金銭的損失を被るような場合でない限り、不可能である。これが唯一の安全な原則なのである。もしも人々が、友情や、死別によって経験する悲しみに基づいてのみ、その友人や親類の生命を保険できるとすれば、賭博保険のあらゆる弊害をもたらし、一段と危険なものになるだろう」(Hunt's Merchants' Magazine [1855:502])。
このことをより直截に述べているのが、Wrightの次の主張である。「被保険利益をもつためには、その人のために生命保険契約がなされるところの者にとって、被保険者の生命が金銭的価値(a money value)をもたねばならない。…もしも夫ないし父が妻子の生活維持に金銭的な貢献を一切果たしていないのならば、夫の生命の喪失が妻子にとって愛という点においてどんなに大きいものであったとしても、妻子にとって夫が被保険者となることは当然認められない。愛情(affections)に金銭的価値はないのである。…愛する身内の生命への保険契約は、もし被保険利益が存在しないのならば、…道徳的にきわめて不快で望ましくない賭博なのである」。さらに彼は明言する。「被保険利益とは、ある人の生命の、第三者にとっての金銭的価値(the money value of the life to a third party)のことであって、それ以外の何物でもありえない」 (Wright, 9th Annual Report, 1864: Wright [1932:266-7, 265]:強調引用者)(註11)。
人間の生命が、金銭的価値をもつ! さまざまなロジックが隠蔽しようとしていた、生命保険における「死と金銭の交換」が、ここでふたたび姿をあらわしはじめる。被保険利益の存在を要件とすることによって、被保険者の生命が経済的・金銭的価値をもつ(もちうる)ということが明確化されてしまうのである。そしてこの金銭的価値をもつ生命は「生産的な生命(a productive life)」とよばれ、「生命保険は、生産的な生命という形をとった資本[たる人間]が…自らを永続的なものにすることを可能にするための、財務的発明として出現した」とされる(Wright, 10th Annual Report, 1865: Wright [1932:303])。だが逆に、「非生産的な生命(an unproductive life)」である幼児や高齢者の場合、彼らの生命に保険をかけることは認められるべきではないということになる(田村[1975b:115])。Wrightは言う:「非生産的な生命に保険をかけることは、売却できない商品に火災保険をかけることと同じである」(Wright, 9th Annual Report, 1864: Wright [1932:266])。だとすれば、「生産的な生命」については、それを「売却できる商品」と同じように――商品と金銭との交換のように――考えることができるということにならないだろうか(註12)。
被保険利益論は、生命保険が賭博という「死と金銭の交換」とは異なることを示そうとするがゆえに、「正当な」経済的利益の存在を強調する。「正当な」生命保険のあり方を定義するために、「正当な」経済的利益=被保険利益という概念が導入されるわけである。しかし、たとえそれが「正当」であれ「不当」であれ、経済的な利益の存在をメルクマールとしたことによって、賭博ではない「正当な」生命保険についても、経済的・金銭的なタームで語らざるをえなくなった。その結果、保険にかけられる生命自体が金銭的価値を有することを(たとえそれが何らかの限定を伴うものであったとしても)明言することになり、生命保険が「死と金銭の交換」という面をもつものであることが可視化されてしまうのである。
別の言い方をすれば、被保険利益論は、生命保険が「死と金銭の交換」の関係を設定するものであることを、部分的に容認してしまうロジックなのである。他の隠蔽のロジックは、別のポジティヴな価値を外部から生命保険に持ち込むもので、直接「死と金銭との交換」にふれないものであり、それゆえに純粋に「隠蔽のロジック」たりえていた。だが被保険利益論は、賭博などのネガティヴな例との比較の上での区別の強調というロジックであり、その経済的利害の正当性の是非において区別しようとするものである。しかしこの比較と区別という作業は、賭博と保険のどちらも人の命をめぐる経済的利害を伴うものであるとして、両者を同一の地平に置いた上ではじめて可能になる。したがって、経済的利益の正当性の問題にしてしまった段階で、既に人の生命に関する賭博も生命保険も、どちらも経済的利益の問題であるという点では共通であって、「死と金銭の交換」という側面を多かれ少なかれ共有するものとして前提しているのである。かくして、被保険利益論や、その系である生命に金銭的価値を認める議論は、その意図はどうあれ、生命保険が死と金銭との交換関係を設定するものであることを率直に語ってしまうことになる。隠蔽のロジックとして用いられた被保険利益論は、結果的に「死と金銭の交換」という面を露呈させてしまうのである。
生命に金銭的価値を認め、そのことを重視する言説――これを「生命価値論」と呼ぶことにしよう――は、決してマイナーなものではない。田村によれば、アメリカ合衆国では19世紀中葉から既にこの種の考え方が見出されるといい、少なくとも生命保険業関係者の間では、当時既にかなり一般性をもった主張であったという(田村[1985:321, 329])。だが他方で、この生命価値論が、必ずしも一般にスムーズに受け入れられるものだとも思われていなかったようである。かくして次のような言葉が語られることになる。「確かに婦人達が言うように、夫は、単なる扶養の手段以上のものである。…しかし、この世界は、パンとバターの問題が真実であり、夫と父の金銭的価値が真理であるような世界であり、そのことを考えるべきである」("The Pecuniary Value of a Husband and Father to His Wife and Children," Chronicle, February 20, 1873, pp.113-4: 田村[1985:327])。
興味深いのは、生命保険の有用性や価値について強い確信をもち、生命保険の「正しい」あり方の実現を強調する言説においてこそ、生命価値論が明確に主張され、結果的に生命保険の「死と金銭の交換」という面が露呈してくるということである。Elizur Wrightもそうであるが、1878年にConneticut Mutual Life Insurance Co.の社長に就任したJacob L. Greeneもそうした例であるといえよう。
1870年代、生命保険業の著しい成長の中心になっていたのは、トンチン・ポリシーという商品であった。この商品は、死者から持ち分の一部を取り上げて生者に渡すという方式のものであり、その特徴は、途中で死亡したり解約したりする場合の処遇は通常に比べて著しく不利な処遇を受けるが、長生きできたならば、十分な報酬が見込まれるという点にあった(田村[1986:9-10])(註13)。Equitable Life Assurance Societyの創設者のHenry B. Hydeは、高利回り・高配当を強調してトンチン・ポリシーを積極的に販売し、Equitable社を大きく成長させた。このHydeは、「トンチンの原理は、生命保険が基づいている原理とは正反対のものである。トンチンでは、動機は本質的に利己的(selfish)である」とまではっきりと述べている(Zelizer [1979:88=1994:114])。
これに対して、Greeneは生命保険には二種類が存在していると主張した。一つは「純粋の生命保険」、すなわち家族に保障を提供するものであって、投機や無駄な経費の余地を一切持たないものである。もう一つは、「一部は生命保険で、一部は投機である」ような保険、すなわちトンチン・ポリシーである。そしてGreeneは、前者こそが生命保険のあるべき姿であって、配当で儲けたり、私利私欲のためのものとして生命保険は営まれてはならないと主張し、「理想主義的経営」を実践した(田村[1986:12-21]、North [1962:240-1])。Greeneにとって、トンチン・ポリシーは「純然たる賭博」であり、生命保険は「宗教」だったのである(Zelizer [1979:88,103=1994:114, 132])。
そして、このような考えをもつGreeneもまた、「生命価値論」の主張者の一人だったのである。「扶養家族のために金銭を稼ぐ人の生命は、家族にとって明確な貨幣価値をもつ」(Greeneの言葉:McCurdy et al. [1893:310])。「生命保険の基礎は人間生命の金銭価値(the money value of human life)である。金銭をうみだすものは金銭の値打ちがあり、金銭を稼ぐものは金銭の値打ちがあり、金銭をうみだすものや稼ぐものが、失われたり破壊されたりした場合には、その金銭価値もまた失われ、破壊される。…[稼ぎ手としての]あらゆる人の生命は、…彼の稼ぎに依存している者たちにとって金銭の値打ちをもつ。そのことは、不動産や株式や債券が、地代や利潤や利息をそこから得る人にとって金銭の値打ちをもつこととまったく同じ意味においてである。…生命の金銭価値は、不動産や株式や債券の貨幣価値と同様に計算可能である」(Jacob L. Greene, An Agent's Work, Hartford: Conneticut Mutual Life Insurance Co., 1885, pp.1-2: Hofflander [1966:386])(註14)。そして生命保険は、こうして決定される生命の金銭価値の補償を目的とするものであり、そうである以上、生命価値に見合った保険料だけの徴収にとどめるべきだというのであった。
経済的利益の利己的な追求に基づくサバイバル競争的なトンチンを批判しながら、正当な保険金額を定義するために生命の金銭的価値を論じることになり、結果として「死と金銭の交換」という側面がやはり浮かび上がってしまう。Greeneにおいても、このことが繰り返されているのである。
「この商業主義の時代に、人間の生命を含むあらゆることを同価値の金銭に還元することは、適切かつ適当なことである」(Dr. C. C. Pierce, "Human Life as a National Asset," in F. Robertson Jones (ed.), History and Proceedings of the World's Insurance Congress, San Francisco: National Insurance Council, 1915, p.386: Zelizer [1979:63=1994:83])。生命保険が、死と金銭との交換関係を設定するものであるということ――このことを露呈させてしまう生命価値論は、やがて20世紀に至って、Solomon S. Huebnerによってさらに積極的に主張され、一層普及することになる。
Huebnerは1915年の著書ではじめて人間生命価値(human life value)という概念を用い、1924年の全米生命保険外務員協会の年次総会での報告(Huebner [1924])や1927年に初版が出版された著書(Huebner [1959a=1962])を通じて、生命価値についての詳細な議論を展開し、この概念の普及に大きく寄与した(Hofflander [1966:388])。
Huebnerは、WrightやGreeneにおいては十分に検討されていなかった人間の生命価値を、より明確かつ理論的・経済学的に定義し、算出する。それは「個人の現在の正当な稼得力のうち、家族の扶養に(ある場合には、仕事上の提携者を保護するために)当てられた部分を、資本化した価値」である(Huebner [1959b:4-5=1960:5-6])。Hubenerによる簡単な説明によれば、その人(男性)自身の年間総収入から、所得税と直接自分のみが生活するのに必要な額を差し引くと、妻子を養うために当てられる額が導かれる。この額と、定年退職までの年数とから、利率などを考慮しつつ計算すれば、この人の「人間生命価値」が算出されるのである(Huebner [1959b:6=1960:6])(註15)。そして彼はこう述べる。「生命保険の基礎は、人間生命のドルで表される価値(the dollar value of human life)である」(Huebner [1959a:3=1962:3])。WrightやGreeneの生命価値概念は、"the money value"という表現だったが、Huebnerにおいては "the dollar value" (ドルで表される価値)という、より直接的な表現になっていることが注目される。
また、Huebnerにとっては、死は通常の肉体的な死亡だけではない。生命価値の喪失がすなわち死なのである。「重要なのは、労働に従事する生命が、所得を生む者として死亡したことであって、死が呈している外形はそれほど重要ではない。経済的観点からすれば、「死」は次の三つの形態のうち何れか一つをとるであろう。(1)肉体的死亡(physical death)、(2)生きながらの死(living death)、(3)停年退職による死亡(retirement death)」(Huebner [1959a:6-7=1962:7])。労働能力の喪失はそれだけで死――経済的死亡――とされるのである(註16)。
このように、Huebnerは生命価値の経済学的な理解の重要性を強調する。したがって、生命保険が遺族のみならず、実際に加入する被保険者自身にとっても効用をもつ=有益なものであることを主張する。生命保険加入は決して自己犠牲的な性格のものではなく、利己的なものなのだと明確に主張するのである。「生命保険は結局のところ、保険料を支払うに値する賞賛さるべき利己的な奉仕(selfish service)であり、被保険者自身にとって物的にも精神的にもきわめて創造的であり、自らの向上と個人的利益にとって他の経済行為と全く同様に功利的(utilitarian)であると、このように生命保険に加入する人に思わせることを、われわれの目的としてはいけないのだろうか」;「…他の製品やサービスを購入することに比べて、生命保険に加入することが特に賞賛を博するという理由で、生命保険が愛他的であるとはいえない。むしろ、生命保険に入ることは、事業(business)という観点からは明白な常識であり、扶養家族がいる場合にはまさに正当である。それは夫の倫理的義務であり、妻の権利であり、そして子どもの要求である」(Huebner [1959a:145, 144=1962:157, 156])。
これまでみてきた言説は、いずれも最終的には生命保険の意義や価値を示そうとするものであったといえる。Huebnerのものも同様ではあるのだが、ことさらにその意義や価値を強調するのではなく、生命保険への加入をむしろ常識的な当然の行為として語りつつ、その意義や価値を述べるという特徴がある。このことを反映して、これまでの言説が生命保険という制度そのものの是非やそれに加入しない(加入するに値しない)と考えることに対する反論だったのに対して、Huebnerの議論においては、生命保険に加入していても、それが必要な保険金額に達しておらず不十分であることが問題視される。生命保険加入の欠如が問題なのではなく、その不足が問題なのである。「1920年代の末まで、生命保険は「肉体的な死亡」の問題だと一般に考えられていた。…生命保険は一般に家族に対する家長の博愛的行為とみられていて、保険の買い手たる保険料支払人による利得の動機をもつ常識的な商行為とはみられていなかった。…被保険者は一般に、自己の保険資産に含まれている「生存価値(living values)」について知らないままであった。被保険者は保険外交員の強い勧めで三千ドルとか五千ドルとか一万ドルとかの保険金額を選ぶのであって、…自分の生命の金銭的価値を思慮深く見積もることはしなかった」(Huebner [1959a:17=1962:19])。「アメリカ合衆国において現在効力を有するあらゆる種類の民間の生命保険契約は、総額で約五千億ドルに達する。…しかしこの総額は、…家庭の人間生命価値を「良心」ならびに「宗教的」観点からみると、あわれなほど小額である。…アメリカの家庭一戸あたりの生命保険の平均価額は、必要な填補額の10%にも達しないようである」(Huebner [1959a:23=1962:26])(註17)。
かつての時代においては、「一家の主人として、被保険者は、「道徳的」「宗教的」「良心的」な見地から考えることはあまりせずに、受取人である自分の家族の者たちへ、篤志的な贈り物として、なにがしかの保障を与えてやるというのが、当時の慣行であった」(Huebner [1959b:4=1960:4-5])。しかし今や、生命保険にただ加入するだけではまだ足りない。自分の生命価値を自ら算出して、その金額をもとに、残される家族の生活保障にとって十分な金額の生命保険に加入しているかどうかまで考慮しなければならないのであり、これこそが「義務」なのである。そして興味深いことに、このように生命価値に基づいた考慮をすることをHuebnerは「道徳的、宗教的、良心的」としている。経済学的なスタンスを強調し続けながらも、肯定の語彙はやはり「道徳」や「宗教」なのである。自分の金銭的価値を算出し考慮するという「道徳」!
生命保険が死と金銭との交換関係を設定するということは、Huebnerの生命価値論においてかくも率直に認められ、「露呈」する。しかしだからといって、道徳や愛情といった非経済的なレトリックが消え去ったわけではない。Huebnerの議論においては、奇妙な形でその共存がなされているのである。「もともと、人間の生命価値という概念は、善意に解してくれる筋からも、少なからぬ反対を受けていた…。…一人の人間の生命を、金銭的価値で表すなどという考えはおそろしいものだと、よく耳にしたものである。…とはいえ、情緒的・精神的観点からみても、扶養家族に対する金銭的な保護(dollar protection)がまさに必要であって、それが一家の主人の宗教的・道徳的な義務であることが明らかな場合には、その経済的な有効性に対して反対するべきではない。…花とかキャンディといった感傷的な贈り物を妻子に与えることがよくないというわけではない。しかし、経済というテーブルの上にすべてのカードがあること、そして一家の主人が、何よりも大切な事業である家族の愛する者たちへ、ゆるぎない経済的基盤を与えているということに、家族の者たちが気づいたときには、物心がつく頃になって子どもたちが父親に対して抱く愛情のみならず、妻の夫に対する愛情も、大きく増すことになるだろう」(Huebner [1959b:8-9=1960:11-2])。
Huebnerは、「(人間の生命に値段をつけるという含意がある)生命保険という語は誤った呼称である」などとは言わない。しかし同時に、「この世界は、パンとバターの問題が真実であり、夫と父の金銭的価値が真理であるような世界である」などと言うこともしない。彼は、生命価値を算出し考慮することを、道徳的なこととして賞揚する。生命保険における「死と金銭との交換関係」は、あっけなく露呈される。だがこのことと「道徳」や「宗教」や「伝道」といった、かつては「死と金銭の交換」を隠蔽するために用いられた語とが互いに結びつけられ、いわば臆面もなく共存しているのである。
「生命保険は経済的に人類に奉仕する(serve)ためにある」「生命保険業ほど、従事する者に奉仕(service)の好機を与える職業はまずない」(Huebner [1959a:6, 31=1962:7, 35])といった、ある種の説教臭ささえ感じさせる語り口と、生命価値論のようなドライな経済学的な把握とが、相互に結びつけられながら共存していること。「死と金銭の交換」を隠蔽するために用いられたレトリックと、それを露呈させてしまうロジックとの表裏一体的な結合。Huebnerの議論が奇妙だとすればそれはこの点においてであり、さらにいえばこの奇妙さは、ここまでみてきた生命保険に関する言説のすべてに見出しうるものであって、Huebnerはそれを最も極端かつ明確な形で示している例であると言うこともできるかもしれない。
生命の金銭的価値という概念は、いずれの場合にも、生命保険のあるべきすがたを定義するために用いられている。Wrightは生命への賭博と区別するために、Greeneは投機的なトンチン・ポリシーとの区別のために、そしてHuebnerは保障の役目を果たしえない不十分な生命保険加入と区別するために、生命の金銭的価値という概念を区別の基準として、自らの議論に導入したのである。
生命保険の「死と金銭の交換」という面は、さまざまなロジックで隠蔽を試みられながらも、生命保険という制度のあるべきすがたを定義しようとすると、どうしても組み込まざるをえない。生命の金銭的価値を定義することは、生命保険の正当なあり方を語る上で不可避なのである。かくして、生命保険において生命が死亡をもって金銭と交換されうること、死と金銭との交換関係が設定されてしまうことが露呈してしまう。隠蔽を試みることによって、むしろ隠蔽の対象がみえてきてしまうのである。
5 結 ―― 隠蔽と露呈の反復
生命保険という制度は、明白に、あるいは暗黙に、死と金銭との交換関係を設定する制度である――生命保険がアメリカ合衆国において登場したとき、このことはさまざまなロジックによって隠蔽され、生命保険の正当化(あるいは正当な生命保険のあり方の定義)が試みられた。「死と金銭の交換」に対してなされた危惧や批判に対して、生命保険のあるべきすがたを描いてそこに何らかの価値を読み込んだり、あるいはネガとなる否定的な例との区別を強調したりして、生命保険の「死と金銭の交換」という側面を隠蔽しようとしたのである。しかしその隠蔽の試みそれ自体によって、生命保険が死と金銭との交換関係を設定していることは結果的に可視化されてしまい、露呈してしまう。そして生命保険という制度のもとで、その登場以来「死と金銭との交換関係の設定」が繰り返され、その中でそのことの隠蔽と露呈もまた繰り返されているのである(註18)。
生命保険が、仮に「死と金銭の交換」というパンドラの箱を開けてしまったのだとするならば、この隠蔽の試みは、開いてしまったその箱を、それよりも一回り大きい別の箱(この箱が生命保険である)の中に入れ、その別の箱を閉じようとすることに喩えられよう。そしてさらに喩えるならば、開いたパンドラの箱が入った箱は、いわば透明な材質でできているのであり、それ故にその箱の内部でパンドラの箱が開いてしまっていることは、透けて見えてしまっているのである。開いてしまったパンドラの箱を、開いたままにしながら、いかにして開いていないことにするか――ここまで描いてきたのは、そのようなことだったといえるかもしれない。
しかし、隠蔽されたものが露呈したにもかかわらず、生命保険という制度は今なお変わらず存続し、隠蔽と露呈は繰り返されている。考えてみればこれは奇妙なことである。露呈によって隠蔽の試みが消滅したわけではなく、むしろ反復されているのである。「死と金銭の交換」が隠蔽されることと、それが露呈することとが、なぜ繰り返されながら、曖昧に共存することが可能なのだろうか?
ここではもう十分に論じることはできないが、暫定的な仮説を述べておこう。すなわち、隠蔽されるものと、露呈してしまうものは、実は同じものではなく、異なるものなのではないだろうか。だからこそ隠蔽と露呈の共存・両立が可能になっているのではないか。
隠蔽されているのは、実は単なる「死と金銭の交換」ではない。「死と金銭の交換」を容認してしまっていること、このことが隠蔽されているのである。そして露呈しているのは、単なる「死と金銭の交換」ではなく、「死と金銭の交換」が現実に可能なことであり、かつそれが前提されているということ、これである。また喩えて言うならば、隠蔽とは、パンドラの箱を自ら開いてしまっていること(という道徳的違反)の隠蔽であり(だから道徳的な側面の強調となる)、露呈とは、(誰も口にはしないが)パンドラの箱はもう開けられてしまっているのだと自ら語ってしまうことである(だから現実の「客観的」な叙述となる)。この両者が両立可能であること、そしてしばしば表裏一体でさえあることは、このこと――隠蔽されるものと露呈するものの微妙な差異――によるものなのではないだろうか。
隠蔽と露呈が両立しうるからこそ、「死と金銭の交換」の隠蔽と露呈は繰り返され、生命保険という制度は存続し、死と金銭との交換関係の設定が繰り返される。別の点からいうならば、「死と金銭の交換」は、もし実行するならば隠蔽されねばならないような何かであるとされている。他方で、「死と金銭の交換」の実行自体は必ずしも不可能なことではなく、現実に実行可能なことでもある。この両方があるからこそ、「死と金銭の交換」の隠蔽と露呈は決着してしまうことなく繰り返される。「死と金銭の交換」はひとつの禁止でありつづけながら、同時にその実行可能性も確保されつづけるのである。
そしてさらに仮説を述べるならば、隠蔽と露呈の二種類の言説がこのような関係において語られたことの背景には、アメリカ社会における私的な所有と自己決定に関する論理の存在がある。結局のところ、アメリカ合衆国において保険というものは、自らが私的に所有するもの(の喪失のリスク)に対処するひとつの形式として解釈されたといえよう。保険もまた、私的に所有するものに対する自己決定の自由、という論理の圏内にあったといえる。だが、物的損害に関する保険ではなく、生命保険という、特に生命を対象とする保険においても、同様に考えることが果たしてできるのだろうか――このことがここで問題化してしまう。生命に保険をかけるということを、そのような自己決定に含めることはできるのか。自己や他者の生命を私的所有の対象としてみなし、それに対する当人のコントロールないし決定を、通常の私的所有物に対してなされる場合と同様に容認することは、本当に可能なのだろうか? 生命保険は、アメリカ合衆国においては、個人にとっての基本的な論理のいわば臨界点を浮かび上がらせるものだと解釈されたのであり、だからこそ隠蔽と露呈の二種類の言説は、単に一方が他方を否定するにとどまらない複雑な関係をもつことになったのである。
今日でもさまざまなロジックを伴って、社会のさまざまな場所において「死と金銭の交換」の隠蔽と露呈は繰り返されている。特に、生命保険買い取り会社の例のように、生命保険のあるべき(とされる)すがたから逸脱するケースが登場するたびに、隠蔽と露呈のゲームは活性化される。この反復は、「死と金銭の交換」が「パンドラの箱を開けること」だとみなされている限り、繰り返されていくのかもしれない。
※本論文は文部省科学研究費補助金による研究成果の一部である。
※既に翻訳があるものを引用する場合でも、新たに訳し直していることがある。
〈註〉
(1) こうした事業が成長した要因としては、アメリカの医療保険制度の問題や、HIV抗体陽性者の増加などを背景に、終末期の医療費などの高額の出費を強いられる現実がある。なお既存の生命保険会社もこれを追うようにして、Accelerated Benefitsすなわち余命告知を受けた段階で死亡保険金の全額または一部を前倒しで支払う商品の発売を開始している。しかし、Accelerated Benefitsの大半は余命6ヶ月にならないと保険金を支払わないので、そこまでの症状悪化を待つ余裕のない患者に対してできるだけ早く買い取りを行うため、買い取り会社の多くは余命2年までを買い取りの対象としている(NHK[1993]、阪口[1996])。
(2) Union Insurance Co.の最初の取締役の一人の、1873年10月8日付の手紙より引用。Zelizer [1979:5=1994:12]による。
(3) 1840年には、アメリカ合衆国全体で生命保険契約は総額で500万ドル以下しかなかったが、20年経たないうちに1億5000万ドルを越え、もう10年すると20億ドルに達し、一世紀後には総計1兆2840億ドルにまで及んだ(Boorstin [1973:173=1976:(上)201])。
(4) 1840年代以降に新聞でも生命保険の記事がみられるようになり、1850年代にはTuckett's Monthly、Insurance Monitor、United States Insurance Gazetteといった保険業界誌が相次いで発刊された。1839年に創刊され、まもなく当時の商業界での確固たる地位を築いた商業誌Hunt's Merchants' Magazineも、1854年から保険についての正規の連載記事を掲載しはじめるようになった。
(5) このことは、20世紀になっても、さらに今日においても基本的に同じであるといえる:「人の生命の価値はあまりにも微妙な問題であるため、契約の条項の主題には容易になりえない」(Hardy [1931:249])。
(6) Wright [1932]に再録されたMassachusetts Reports on Life Insurance: 1859-1865, by the Insurance Commissioners, Originally Published by Wright & Potter, State Printers, Bostonからの引用。4th Annual Report (1859)から10th Annual Report (1865)までが収録されている。ページ数はWright [1932]に従う。
(7) これはごく大まかな把握であり、具体的な諸制度との関連も含めた詳細については、Trattner [1974=1978]・井出[1985]などを参照のこと。
(8) 逆に夫が妻に対して生命保険をかけることは、保険金目当ての不当なものだとみなされた。「自分の妻に対して故意に貨幣価値を設定することのできる夫は、妻への愛情を全く欠くだけでなく、自尊心も欠いており、あまりに強欲で男らしくない」("The Insurable Value of a Wife," Insurance Monitor, 18, 1870: Zelizer [1979:62=1994:83])。また子どもの生命保険については、Zelizer [1985]を参照。
(9) ただし生命保険契約においては、被保険利益の存在は契約の要素とみるべきではなく、必ずしも必要ではないという解釈が日本の法学研究では通説化しており、長年議論の対象となっている。被保険利益をめぐる議論の詳細については、大森[1952]・白杉[1953]・石田[1978]などを参照のこと。田村[1975b:114]によれば、以下でみるWrightの被保険利益論は、損害填補説的な古いタイプの理論であるという。
(10) このことの背景には、当時のアメリカ社会における「道徳」というレトリックのもつ意味の大きさがある。また、経済や消費にかかわる領域は、ロジックの変化はあれ、つねに道徳との関連が問題視され議論が繰り返されてきた(Horowitz [1985])。
(11) 今日のアメリカ合衆国では、過半の州において、親子関係にある二者は相互に相手の生命に被保険利益を有するとされており、経済的な利益の存在への限定はこの時代ほどには厳しいものではなくなっている。詳細はCrawford and Beadles [1989=1993:200-8]および白杉[1953:72-5]を参照。
(12) 田村[1985]は、生命の価値という概念が生命そのものの金銭的評価を企てているとみることは誤りであると強調する。また石田[1978:368, 378]も、そこでなされる人間の稼得力の評価はあくまでも「便宜的」なものであると述べている。確かにそうかもしれないのだが、しかし他方でこのような言明がわざわざ付加されるということ自体に、こうした言明もまた隠蔽のロジックとして機能していることがあらわれているといえないだろうか。
(13) トンチン・ポリシーにはいくつか種類があったが、1873年にEquitableが発売した商品を素材とすると、その特徴は次の三点である。@トンチン期間(通常10年から30年)満了前に死亡した保険契約者には、所定の保険金が支払われるが、しかしそれまでにその契約者の契約について蓄積された剰余金は、すべて没収される。Aトンチン期間満了前に失効・解約した場合、契約者は解約返戻金と剰余金をすべて没収される。Bトンチン期間満了まで生存し、かつ保険料支払いを継続した契約者には、保険金・剰余金積立額・および@Aで没収された金額が配分される(田村[1986:9])。
(14) 以上にみるように、Greeneの生命価値論はほぼWrightと同様のものであった。異なる点は、計算の方法は不明ながら、 Greeneが生命の金銭的価値として実際の数値を挙げている点である(田村[1979:213])。
(15) 実際には年収や所得税額などが年々変化するため、算出がより複雑になることは言うまでもない(Huebner [1959a:50-2=1962:56-9]、西川[1981])。
(16) したがって、死亡ではなくても病気や傷害などもこのような意味の経済的死亡になりうるため、Huebner [1959a=1962][1959c=1960]は健康保険も生命保険同様に重視して論じている。また実際、20世紀に入ってからは、生命保険会社が健康・衛生の増進のためのプログラムを積極的に支援する例が多々みられる(Fisk [1913]、Zunz [1990:90-101]、Zelizer [1979:166=1994:208-9]、Woods [1928]、Huebner [1959a=1962:251-6])。
(17) 同様の論理で、ある論者は、アメリカ国民の生命の金銭的価値の総計は1926年末の段階で約1兆6500億ドルであり、生命保険はそのわずか5.7%しかカバーしておらず、できる限りこの比率を高める必要があると、1928年に主張している(Woods [1928:22-3])。
(18) Zelizer [1979=1994]の研究の最終的な主張は、(必ずしも明確にまとめられているわけではないが)生命保険をめぐる言説において、道徳に関する言語から市場的な言語への移行を読み取ることができる、というものであった。しかしZelizerはこの二つの間の関係について十分な検討をおこなっておらず、その議論は言説の分布の推移を指摘したにとどまっているといわざるをえない。本論文はこれに対して、隠蔽と露呈、およびその反復という、言説のロジックと展開のレベルに照準を試みたものだといえる。
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