久木元 真吾「二つの住民像」

二つの住民像――熊本県小国町における町政と住民像の変遷――

久木元 真吾

『相関社会科学』(東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻)第6号(1997年2月)掲載(pp.72-87)


1 はじめに──公共社会としての地域社会

 地域社会というものが近年注目を集めつつある。地域社会ないしコミュニティなるものを、われわれの生活の場として再発見・再評価する動きが、盛んになってきている。
 もちろん、例えばまちづくり・むらおこしなどと呼ばれる運動/議論自体は、反公害の住民運動や町並みの保存、あるいは過疎化の進展などの具体的な課題を背景に、早いものでは1960年代から既に各地でみられるようになっている。また、政府の側からのコミュニティ形成の主張も同じ時期から表れてきており、その限りでは、地域社会への注目自体を新しいものと言うことはできない。
 1990年代以降の地域社会/コミュニティへの注目に、これまでにはない新たな特徴があるのだとすれば、それは次の二つのことが課題として意識されている点にあるように思われる。一つは、「生活の場」として地域社会をみる視点からの、アメニティに富み豊かな生活を送りうるような地域社会の実現という課題である。この背景には、例えば「会社人間」的なライフスタイルへの批判や、「生活」という語彙への関心の高まりなどがあろう。もう一つは、同質ではなく互いに相異なる多様な人々が、一つのあり方への「調和」を強いられることなく「共生」できるような地域社会の実現という課題である。この背景には、例えば外国人住民・高齢者・障害者・女性などの「マイノリティ」の存在への問題意識の高まりがあるといえよう。
 この二つの課題から、いまいかなる地域社会/コミュニティの実現がめざされているのかを一言で言うならば、「公共社会としての地域社会」の実現、とまとめることができるのではないだろうか。「公共社会としての地域社会」とは何か、それをどう考え、どう実現し、どう営んでいくか――近年の地域社会に関する関心の高まりは、こうした諸点をめぐる議論をもたらしている。このような、地域社会の「公共社会性」とでも言うべきものへの関心こそが従来の議論とは異なる点であり、本論文も「公共社会としての地域社会」という問いをその原的な出発点としている。
 熊本県阿蘇郡小国町は、「悠木の里づくり」というまちづくり運動が展開されていることで知られる地域である。当初は地元産の杉を生かした木造建築物が話題となっていたが、近年ではそれにとどまらず、地域づくりへの積極的な住民参加がみられることでも、全国的な注目を集めるようになっている。そのユニークなまちづくりのあり方は、「公共社会としての地域社会」というここでの問いにとってもきわめて示唆的なものであると考えられる。
 本論文は、この小国町の歴史的な変遷を踏まえつつ、戦後の小国町において大きな存在感を持つ二人の町長――河津寅雄と宮崎暢俊――に注目し、二人の町政がどのような住民像の実現をめざすものであったのかを検討する。そしてそれぞれの町政下において、その住民像が小国町の地域社会にとってどのような意味を持ったのかを論じ、これからの課題のありかを示唆することにしたい(註1)。

2 町の概況と前史──大字共同体の統合

 熊本県阿蘇郡小国町は阿蘇外輪山の北に位置し、大分県と福岡県の県境に接している。町の総面積は137平方キロメートルで、その8割は山林であり、山林の75%は「小国杉」と呼ばれる杉の人工林である。人口は1960年頃の1万6000人をピークに減少しつつあり、1970(昭和45)年には過疎指定を受け、現在では約1万人(約2900戸)となっている。
 小国町は六つの大字――宮原・下城・北里・西里・上田・黒淵――によって構成されており、大字は現在に至るまで町民の帰属意識において重要な単位となっている。かつて町の中心地の大字宮原には国鉄宮原線の肥後小国駅があったが、1984(昭和59)年に廃止されている。大字下城の杖立温泉をはじめ、町内には温泉もいくつかあるが、産業の中心は長く林業が担ってきた。農業では大根が現在では重要な作物となっており、また1950年代後半に導入されたジャージー牛の飼育でも知られている。
 このような現在の町の姿は、いかなる歴史的展開を経て成立したものなのだろうか。地域社会のあり方ということに焦点を合わせてみるならば、近現代の小国町の歴史は大きく三つの時期に分けることができる。
 第一の時期は、明治期以降第二次世界大戦終戦前後に至るまでである。この時期には、大字ないし「旧村」「小村」などと呼ばれる地域が核となって共同体が構成され、強い統合力を持っていた。第二の時期は、1948(昭和23)年から1979(昭和54)年までの、河津寅雄という人物が町長を務めていた時期である。強力なリーダーシップを誇ったこの河津町長のもとで、既存の大字共同体はかつてその影響力の基盤であった共有地の多くを失うことになる。そして第三の時期は、1983(昭和58)年から今日に至る、宮崎暢俊町長による町政の時期である。この時期には先述の通り「悠木の里づくり」と称されるまちづくりの取り組みが進められ、地域社会レベルでの住民参加を伴う公共的な意思決定の推進などの試みが展開されている。
 この節ではまず前史として、第一の時期の小国町について、そこでの地域社会のあり方に注目しながらみておくことにしよう。
  
 ここでは、現在に至るまで大字という単位として存続している領域に特に注目したい。既に述べたように、小国町は六つの大字から成り立っている。現在でも、例えば「悠木の里づくり」の方向性を示す1991(平成3)年刊行の『小国ニューシナリオ』において、「[六つの大字から成り立っているということは]微妙に文化の違う国々が集まってできた連邦国家のようなものだ。…小国の地域づくりは、町全体を単純に均質化するのではなく、これらの大字や集落に見られるような、町内の多様な地域社会の存在を前提に」するところから出発したい、と述べられている(地域総合研究所編[1991:14])。このことは、現在に至るまで住民にとって大字という単位がいかに強く意識されているかということを表しているといえよう。
 事実、明治期から戦前にかけての小国町においては、この大字という単位がより深い意味で非常に重要だったのである。この時期、大字は農民の入会地の支配=管理の主体であり、農民の耕作はこの大字共同体の規制のもとで行われていた。大字内の全戸は大字協議会という住民組織に加わっていた(註2)が、この大字協議会は入会地=牧野の管理を中心的な役割として担い、他にも道路・消防・学校など大字全体に関する公共的な事業の多くを担当する組織である。そのため、あくまでも私的な組織ではあるが、実際には半ば公共的な色彩を帯びており、大字によっては公的な地域の長(区長)よりも大字協議会長の方が有力者によって占められる傾向さえもあったという。このように、この時期の小国町の地域社会は、大字という単位を核として強力に統合されていたのである(註3)。
 それでは、いつからこの大字という単位はクローズアップされてきたのだろうか。そのきっかけとなったと思われるのが、1905(明治38)年の国有原野の下戻である。
 小国町において大字が入会地=共有地の管理を担っていたことは既にふれたが、この入会地は、元は旧藩時代に村持山として採草放牧に利用されていたものである。この土地は、1885 (明治18)年の官民有区分により、一旦すべて官有地とされたが、1905(明治38)年には国有林野下戻法に基づいて下戻された。この際に、すべての土地は北小国村(=小国町の当時の名称)ではなく各大字に対して下戻されたのである。以後の大字の強い影響力の基盤となる入会地=共有地は、この時の下戻にその重要な基礎がある。熊本県や阿蘇郡は、当時下戻原野はすべて各町村の基本財産に編入すべきであるという方針をとっていたのだが、北小国村では1906 (明治39)年にその一部が村に寄付されたにすぎなかった。大半の原野(牧野)は、「その後展開される部落有林野統一政策にもかかわらず、大字有として大字協議会の管理下におかれ」続けたのである(農林漁業基本問題調査事務局[1960:299-300])。
 やがて1935(昭和10)年の町制施行の際に、大字所有の原野ははじめて町に寄付統一され、町有化された。しかし、実際には共有地に対する実質的な権限はなお大字協議会が握っていた。「部落有財産寄附条件」(1935年1月21日修正可決)によれば、「採草地、放牧場及採薪其ノ他使用ニ関シテハ統一後ト雖モ従来ノ慣行ニ拠ル」とされ、町への寄付に際して、「従来ノ慣行」すなわち大字の入会権は結局のところ維持されていることがわかる(川島他[1959:173-4])。町に寄付した後も「大字(旧村)が小国町におけるほどに強固な牧野支配権をもち続けた事例は阿蘇郡には珍しく、この点にも小国町の牧野関係の特質がみられる」(岩片[1956:43])といわれるほどにまで、大字の力は強力であったのである。所有権は確かに町に移り、形式的には町有地となったのではあるが、決して町の権限のもとに入ったわけではなく、大字が実質的に共有地を管轄することにかわりはなかった。
 このように、この時期の小国町の地域社会は、農民の入会慣行を核として、大字やその下の集落ないし集落連合のもとで強力に統合されていたといえる。その中心には入会牧野(採草放牧地)の共同利用があった。町有地=公有林が採草放牧地であったために、農民のそれへの依存は著しく(川島他[1959:176])、このような地域の統合がもたらされたのではないかと思われる。だが同時に、このような地域社会の統合は山林地主や上層農と小作農・零細農の関係、すなわち階層差の存在を前提とする「寄生的牛馬小作制」(梶井[1959])のもとでの共同体秩序であった。その限りにおいて、たとえそこに地域社会としての一体性や住民のコミットメントがあったとしても、現代においてめざされるようなコミュニティ像をこの時期に見出すことは困難である。実際、戦後の農地解放を経たのちの新たな町政の展開により、こうした小国町の地域社会のあり方は大きく変わっていくことになる。

3 私的な経済活動への積極性──河津町政における住民像

 戦後になり、1948(昭和23)年に小国町長に就任したのは河津寅雄でる。以後死去する1979 (昭和54)年まで、8期30年間にわたって町長を務めることになる河津の町政は、それまで地縁的・共同体的な関係の強い規制のもとにあった小国町の地域社会に、大きな変化をもたらすことになる。
 河津町政の特徴は、第一に徹底した合理主義にみられる、経済的なメリットの重視であり、そして第二に、町民に対する福祉や教育を重視しその充実をめざす姿勢である。彼は町財政において職員数=人件費をギリギリまで抑え、また事務費などを徹底的に合理化して、捻出した金を福祉や教育などに投入したという(堺[1980:144])。例えば、1964(昭和39)年には国民健康保険の世帯主・家族十割給付の実施が実現されており、これは全国でも先駆的な試みだったという。また1963(昭和38)年には小中学校の教科書無償配布と修学旅行費の全額町費負担を決定している。これも全国に先駆けたものであり、しかも町外の中学に進学している中学生にも同じ基準に基づいて支給され、さらには遠距離通学の中学生への通学費補助や寄宿舎に入っている中学生への帰省費の支給なども行う徹底ぶりであったという(神田[1988:75-8])。誰でも法の前には平等、小国町民は機会均等でなければならぬ――河津は常々そう主張していたそうである(神田[1988:76])。
 合理化によって浮かせた金を福祉・教育に回すという河津町政の特徴は、人件費=賃金への態度に注目することで一層よく理解することが可能になる。ここでは例として、河津が林業労働者の人件費に対してどのような考えを持っていたかについて、堺[1980]に即しながらみることにしよう。
 堺によれば、日本の多くの森林組合は、昭和40年代における林業構造改善事業の展開を契機として、各種機材など生産手段の整備を進め、森林組合労務班(作業班)をつくるという形で労働力を組織化し、伐出・造林などの直接生産過程に乗り出していった。こうした中で、多くの場合林業労働者は森林組合とその作業班員という雇用関係に再編(「近代化」)され、合わせて森林組合による労務対策の実施などを通じて雇用条件の改善・安定化を促進することがめざされたのだという。
しかし、河津町政下の小国町では、このように森林組合を林業の生産主体にしていこうという方向は必ずしも重視されず、森林組合においても労務班(作業班)の組織化はなされなかった。その背景にあるのは、河津の人件費=賃金に対する厳しい態度である。彼が町役場の人件費の抑制につとめたことは既に述べたが、森林組合長でもあった河津は、労務班の組織化は林業労働組合に発展しかねず、林業賃金の上昇をもたらすものだとして、これを警戒していたという。その代わりの林業労働力対策として、町が森林組合に多額の助成を続けていることや、林業労働者の共済事業の実施に積極的に予算を割いていることなどが指摘できるという。
 こうしたことから、堺は小国町の林業労働力対策には「雇用関係の近代化、雇用条件の向上による労働力の安定的確保という考え方は見られ」ないとして、「雇用関係に手をつけずに個々の労働者にいくらかの金を交付すること、これが小国町の林業労働力対策の基調ともいえ」ると述べている(堺[1980:180])。そしてその背景には、賃金の上昇に対する河津の強い懸念があったのだという。
 雇用関係に手をつけずに、個々の労働者にいくらかの金を交付すること――これは河津町政がもっていたパターナリスティックな性格をよく表している。河津は全国町村会会長や自民党熊本県連会長の職を長く務めた、強力な政治力の持ち主だったが、それのみならず彼は町内の長という長をほとんど務めていた。町内屈指の山林地主であった河津は、町長や森林組合以外にも、農協や林産組合などの長を兼務しており、「婦人会の会長以外はすべて河津が務めている」とまで言われるほどであった。そのように数多くの組織の長である河津について、ある町民はかつて「それらの組織をいろいろに利用して町民の面倒を見てくれているのですから、私達は自分の利益のためにあの人に任せるのですよ」と述べたという(神田[1988:111])。河津は町民たちの「面倒を見てくれる」ような存在と理解されていた。強力なイニシアティヴと政治力によって諸政策を展開した河津の町政には、このような「面倒をみる」というパターナリズムが基調にあるといってよい。合理主義も福祉・教育の重視も、結局のところこのパターナリズムの二つの側面なのである。
  
 以上のような諸特徴をもつ河津町政下の出来事で最も重要なのが、1950(昭和25)年に提唱され、1959(昭和34)年に議会で可決された「町有牧野の払い下げ」である。この払い下げの実施は、上述した諸特徴が明確に表れている例であると同時に、小国町の地域社会にとって大きなインパクトをもつものであった。
既にみたように、小国町の共有牧野は1935 (昭和10)年の町制施行時に町有化されてはいたものの、依然として牧野に対する大字の入会権は実質的に保持されており、農民の採草放牧の慣行および大字の共有地に対する強力な支配は変わらずに続いていた。そのことはすなわち、共有地の管理主体である大字協議会の強い影響力が保持されていたということでもある。
 河津が提唱した町有牧野の払い下げとは、この3800ha(註4)の町有牧野を、旧慣使用権者の各個人に有償で払い下げようというものである。河津がこのような提唱を行った理由は、以下の三点にまとめることができる(以下川島他[1959: 225-6]の整理を参照)。すなわち、第一に、各農家の放牧採草使用権を認めてしまっている現状では、町有牧野は名ばかり町有であっても、町にとっては利益にならないもので、維持する必然性もない。むしろこれを個人に分けて固定資産税でもとった方が、町財政にとっても望ましい、という理由。第二に、農民の側にとっても、現状では収穫や利益の一定の比率を大字や町にとられてしまい、権利者たる農民の手に残る分は多いとはいえず、これでは農民が土地や作物を大切に保護する気持ちを起こすことは到底できず、また従来の利用慣行に拘束されるために新たな利用や売買が容易でない、という理由。そして第三に、現状の放牧慣行のもとでは、牧野は充分に利用されているとはいえず、年々生産性も低下しかねないが、払い下げによって個人有になれば、個人の意欲がかきたてられて資本や労働の投下が進み、牧野をより高度に利用することができるようになり、生産力の向上やそれに伴う農家所得の向上も期待できる、という理由である。
 この払い下げの提案に対して、当初町内のほとんどの勢力は強く反対したという(以下川島他[1959:228]の整理を参照)。例えば大字や各集落の支配層は、牧野が私有化され処分の自由が認められるならば、大字内の支配層の経済力ではかなわないほどの経済力をもつ町外の資本家によって買い占められてしまう危険があり、また大字内の階層分解が進み、結果的に大字の共同体的な結合の解体をもたらしかねないと考えていた。また、実際に町有牧野の利用権利を持っている農民は、有償払い下げであるために、現在実際に採草放牧に利用している土地に対して改めて現金を支払って購入せねばならず、税負担も生じてしまうことへの不満を持っており、また私有化・処分の自由化に伴い、牧野が上層の農民に集中してしまうのではないかという不安があった。
 河津はこうした反対意見に対して、「山が誰の手に渡ろうと、資力あるものによって植林されれば、それだけ町民の仕事もふえ、結果的に小国町全体をうるおすことになる」と反論したという(梶井[1959:221]、川島他[1959:227])。河津は一貫して自説を主張し続け、その強力な政治力をもって払い下げ政策の浸透を進めた。そして最終的に、1959(昭和34)年2月8日に町有牧野払下要綱に基づいた払い下げ実施が議会で可決されるに至り、町有地の払い下げが開始されたのである(註5)。
  
 この町有地の払い下げという政策は、当時の小国町にとってどのような意味をもつものであったのだろうか。
 まず第一に、この政策は従来の大字共同体の強い影響力に対して大きく介入するという意味をもつ。大字共同体秩序の頂点に立つ在村支配層をつかむことによって農民を間接的につかむのではなく、大字共同体を媒介せずに町が直接に個々の農民をつかんでいくという方向が、この政策には明確に表れている(川島他[1959:277])。川島らは河津が「払下げを通じて大字そのものを解体させよう」という「反大字」の立場をとっていたとまで述べている(川島他[1959:234,277])が、そこまで言えるかどうかはともかく、大字を核とする地域社会の既存の秩序を河津が否定的にみていたことは事実であろう。合理主義を志向する河津の町政は、明らかに大字共同体秩序の性格とは対立するものであった。
 だとするならば、河津は新たにどのようなあり方がめざされるべきだと考えていたのであろうか。それは農民の私有意識を育成することによって、牧野改良・森林開発を積極的に行うという方向をめざすということであり、それは払い下げという政策の第二の意味でもある。当時は農地解放に伴う小土地所有農民の創出が進んだ頃で、加えて社会党の山林解放要求などもあった時期であった。また朝鮮戦争の勃発により木材需要の増大と木材価格の高騰が進み、林地化への意欲が現れはじめた頃でもあった。こうした中で、土地の効率的・積極的な利用の推進=開発がもたらす経済的なメリットを河津は重視していたと思われる。そのためには、それを妨げる大字共同体の慣行に基づく秩序は解体されねばならないと考えていたとしても不思議はない。
 重要なのは、河津が農民自身の私有意識に注目し、これをいわば「煽る」――「欲を出させる」(註6)――ことを、これらの変化の実現の基礎として考えていたということである。既存のものに対して行政の側から介入することに加えて、農民自身の意識の変化・意欲の喚起もまた――あるいはこれこそが――めざされていたのである。河津は、土地の「改良意欲を高揚」させるためにこそ払い下げが必要なのだと強く主張したという(梶井[1959:221])。実際、従来にはなかった新たな農家経営の方向性を示すものとして、この同じ時期に町によってジャージー牛の導入が奨励されており、そのための農協による融資の開始など、「意欲」の刺激は様々な形で展開されようとしていた。
 このことからわかるのは、河津が払い下げによっていかなる姿の住民の創出をめざしていたかである。すなわち、河津町政、特にこの払い下げ政策においてモデルとなっていた「住民像」=農民像は、経済的な利益を欲し、自ら主体的・積極的に(共有のではなく、自分自身が所有する)土地の改良や集約・高度利用に励み、その成果を(共有ではなく)自らの私的な利益として享受しようとする、というものである。このような、既存の大字共同体から自由な、「私的な経済活動と利益追求への意欲的・積極的な姿勢」をもつ住民こそが、河津町政においてモデルとされた住民像なのだといえる。共同体秩序や組織体の中での農家/林家経営ではなく、個別経営の育成・振興がめざされたのであり、そのような環境において積極的な経済的利益の追求を自ら進んで行うようになることが期待されたのである。このような「意欲」をもつ住民をつくりだすことと、行政の側からのパターナリスティックな支援・奨励――これもまさに「意欲」の喚起のためのものだといえる――とを組み合わせることによって、かつての共同体的な秩序からはなれた、新たな町のあり方――開発の推進ないし経済の発展――がめざされていたのである(註7)。
  
 町有地の払い下げ実施に伴い、小国町の地域社会は転機を迎えることになる。大字協議会は、共有牧野の管理というその中心的な役割を大きく失うことになったが、それ以外の地域にかかわる役割は保持しながら、現在まで一定の存在感を保ちつつ存続している。だが、かつてのような町に対する自立性や強い影響力を失ったのは確かであり、地域社会の統合の唯一無二の核となりうるような組織ではもはやなくなったといえる。そしてそれは同時に、大字共同体秩序自体が解体ないし弱体化していったことを意味する。小国町の地域社会は、事実としてかつてのような共同体的な秩序をもつものではなくなりつつあったのではないだろうか。
 町有地払い下げの結果、小国町では払い下げ牧野の約半分にあたる2000haの拡大造林が達成され、1965(昭和40)年頃までは年平均200haのペースで拡大造林が行われた。また個人所有化された牧野に造成された、湧蓋山麓の三共牧野の管理運営が評価され、1964(昭和39)年に農業祭の畜産部門で小国町農協が天皇杯を受賞するということもあった。神田[1988:111]によれば、払い下げ後の利用状況は良好で生産性も向上したという。この点の正確な判断はここではできないが、小国町が一定の経済的な豊かさを得たのは確かなようである。
 だが高度成長期も終わり、過疎化の進展に伴う労働力不足や、昭和50年代になって林業景気も去り木材価格の低迷が始まるにつれて、拡大造林も減少傾向に入る(堺[1980:129])。時代の変化が進む中で、1979(昭和54)年に河津は死去し、河津町政は幕を閉じることになる。

4 公共的活動へのコミットメント──宮崎町政における住民像とその創出

 こうした時代の変化の中で、現在の町長でもある宮崎暢俊が町長に就任したのは1983(昭和58)年である。宮崎のもとで、小国町では現在積極的な住民参加を伴うまちづくりの取り組みが展開されている。町制施行50周年をきっかけに「悠木の里づくり」として提唱されたこのまちづくりは、当初は地元産の杉を生かした独自工法によるユニークな木造建築物づくりで注目された。しかし1989年頃以降は、そうしたハード面の整備からソフト面に重点を移しつつあり、住民によるイベントの実施や地域の土地利用計画の立案と実施などが進められている(註8)。ここではその多彩な取り組みの中でも、住民の地域づくりへの参加という点に注目して、宮崎町政においてモデルとされている「住民像」、およびその創出について考えてみることにしたい。
 宮崎の基本的な主張は、時代に合わせて農山村も自ら進んで変化し、新たなものを創造していく姿勢が必要だというものである。「なぜ農山村は活力を失ったのだろうか。豊かな自然の中に貴重な歴史的遺産を残し、素朴な人々がコミュニティを形成していることを、多くの人が賛美する。あたかもその環境を、生活を、守り続けていけばいつかは農山村は良くなると言うように……。[しかし]私は、農山村が活力を失ってきたのは、農山村が時代に合わせて自らが変化していく努力を怠った結果だと考えている。「農山村は変わらない方がいい」という言葉に甘えてきたのだ。……過疎の問題は、山村が時代の流れに合わせて、自分たちの地域を変えていこうとする努力をしてこなかった証なのではなかろうか。過去に安住してしまい、動きがないから、地域に魅力がない」(宮崎[1994:8-9,28])。だからこそ、山村は従来のイメージから脱却し、積極的に変わろうとするべきであり、そのことはすなわち「[自分たちが]住んでみたい気持ちになれる地域」をつくっていくことだという。そうすれば、結果的に外部の人々にとっても魅力的な地域になってくるはずであり、全国から人が集まってくるようになるはずだ、というのである。
 こうした宮崎の考えの軸にあるのは、住民が地域づくりに進んでアイディアを出し、地域の将来のために自ら努力することの重視である。「魅力的な地域、魅力的な山村は、経済力だけで実現できることではない。自然環境の良さ、生活環境の充実、誇り得る伝統・文化があること、住民に相手を思いやる精神的ゆとりがあること、などが必要だ。そして何よりも、それらのことは住んでいる人々が、創り上げていかなければならないことだ。基本は、住民の意識に帰着する」(宮崎[1994:29])。「住民自らが自分たちの地域づくりに…積極的に関わっていく」ことこそが地方自治ひいては民主主義の基本なのである――宮崎はそう主張する。「建前ではなく、本音で地域づくりを発案し、生活を楽しみながらひとつずつ実践していく。それを行政が後押しをする。そんな本当の地方自治を実現する時代がやって来たのだ」(宮崎[1994:30])。
 こうした宮崎の言葉に表れているように、宮崎町政においてモデルないし理念としてめざされている「住民像」は、自らが住む地域の地域づくりに進んで参加し、楽しみながらそれに取り組む、というものである。言い換えるならば、「地域づくりに代表される、公共的な新しい取り組みへの自発的・積極的なコミットメント」こそが、宮崎町政において望ましいとされている住民像である。河津町政下の住民像では、大字共同体という既存の「公共性」から脱して「私的」な経済活動に進んで取り組むことが特徴であったが、ここでは再び私的利害を超えて地域づくりという新たな「公共性」への積極的な姿勢が肯定的に語られているのである。
 「公共性」が主題化されるに至ったことの背景には、過疎化への対処が小国町にとっての最大の課題になったということがある。河津町政下においては、小国町にとっての最大の課題は経済の発展(産業の育成・開発の推進)であり、したがってそこでの住民像も、私的な経済活動に積極的な住民というものであった。しかし、宮崎の著書においては、過疎という問題の中に小国町が在ることへの強い認識が議論の前提となっている。この著書は、一貫して都市と農山村という対立の構図から書かれており、過疎化の進む農山村が、これからの時代にどのようなあり方をめざすべきかという問題意識から議論がなされているのである。このような問題意識にとって、産業の育成や観光開発などを通じた町の経済的な発展は、決して究極的な解決策とは見なされない(註9)。地域住民の公共的な取り組みへのコミットメントこそが、たとえ一見すると過疎化への直接的な対処策には見えないとしても、結果的に地域を魅力的なものにして、人々を引き寄せるようになっていく――というわけである。
 そしてここでもまた注目すべきなのは、河津町政と同様に、住民自身の「自発的・積極的な姿勢」が謳われていること、つまり行政の側が何かをするという以上に、住民自身の意識の変化・意欲の喚起こそが強調されている点である。私的で経済的な取り組みに向かうのではなく、地域の公共的な取り組みに向かうという点で、河津町政の場合とは異なってはいるものの、住民自身の自発性や積極性を引き出すことをめざしているという点では、河津・宮崎の両町政は共通しているといえよう。
 実際の小国町のまちづくりの様子をみると、まさしくこの住民像がある程度実現されていると感じずにはいられない。「悠木の里づくり」において、町長のイニシアティヴや役場の存在感などが大きいのは確かであるのだが、だからといって彼らだけが「主役」であるという印象があるわけではない。むしろアクターは多彩であり、その他の様々な住民の組織・グループも同じように大きな存在感をもっており、彼らも含めて多くのアクターが活発な活動を展開する中でまちづくりが進んでいるようにみえるのである。つまり単純な「町主導」のまちづくりではなく、住民たちが「自発的」にまちづくりに取り組んでいるようにみえるのである。宮崎は、「行政が与えた刺激に対して、その地域の人達が影響を受けて、自分達でどれくらい創造的な活動を起していけるかが大切なことである」と述べている(宮崎[1994:142])が、確かに小国町の住民たちの積極的・創造的な姿勢には目を見張るものがあるといえる。
 大森[1990]は、地方自治をめぐる議論において、住民の「元気」というものの重要性を指摘している。大森によれば、住民の「元気」とは、地域の住民ひとりひとりがあくまでも自分の生活利害から出発しながら、自治の主体としての条件を獲得し、利己と狭域をこえ出て他の人びとと共存の関係を形成しうるような、主体形成の住民エネルギーのことだという(大森[1990:236])。さらに大森は、この「元気」の類型の一つとして「自律的秩序形成の「元気」」というものを挙げている。それはすなわち、住民が自らの手で共通に直面する問題を解決していく内発的な秩序の形成力のことであるいう(大森[1990:250-261])。すると、宮崎町政における「住民像」はまさしく「元気」な住民のことだといえ、そしてその中でも、「内発的」という点から「自律的秩序形成の「元気」」を備えた住民であるといえよう。
 しかし、では本当に小国町の住民たちの「元気」は、自然的・内発的なものなのだろうか? 宮崎は、「意欲的な人材が創造力を発揮しやすいような環境、自由な雰囲気づくりは、私達が小国の先輩たちから受け継いだ伝統である」として、「今後ともその精神を大事にし、創造性を積極的に支援する風土を醸成していきたい」と述べているが(宮崎[1994:147])、そのような「伝統」や「風土」が本当に存在するかどうかはわからない。むしろ実際のまちづくりの進め方からわかるのは、ある工夫によって住民たちは「自発的」な姿勢をもつに至っているということである。つまり、「自発性」とはいっても、ある面でやはりそれは"つくりだされた"ものなのではないだろうか。具体的には、人材の選抜や彼らへの仕事の任せ方においてみられるある特徴が、「自発性」の創出に大きく関わっていると考えられる。以下では、この「自発性」ないし「元気」の創出について論じることにしたい。
  
 実際、小国町で行われている取り組みは実に様々であり、地域づくりという「公共性」に照準した取り組みに限ってもなお多彩に展開されている。例えば、地域住民も加わった将来計画から始まり、1988(昭和63)年に完成・開館した宿泊研修施設「木魂館」は、地域づくりの人材の交流・育成の拠点およびイベント等の会場として活発に活用されている。この木魂館は、観光客も多く訪れみやげ物も販売されてはいるが、その位置づけは決して観光スポットなどではなく、あくまでも交流の基地であり、住民や町外の人々が訪れて、地域への思いや考えを語り合う「公共性」の空間なのである。また、小国町の各大字には、地域づくりのための組織である「コミュニティプランチーム」がつくられて活動を行っている。コミュニティプランチームとは、地域の土地利用の計画を中心に、祭りの開催・河川の清掃活動・イベントなどの住民活動の企画・運営や、さらには防犯灯の設置や下水道の敷設などに至るまで、住民の視点から幅広い「公共」的活動を展開している住民組織である(註10)。特に大字西里の下水道敷設は、コミュニティプランチームが住民の意見を取りまとめて実現させた例であり、コミュニティプランチームの取り組みによる大きな成果の一つである。
 こうした多彩な取り組みの数々は、どのようなきっかけで始まったのだろうか。これまでの小国町でのまちづくりにおいてしばしばみられるのは、新しい企画を立ち上げる際に、町役場の側がその企画・活動の中心となるリーダーをいわば「抜擢」するということである。例えば、現在の小国町および北里地区のまちづくりの中心的な人物である江藤訓重・木魂館館長は、元々は東京の大学を卒業してUターンしてきた若者であり、「抜擢」の末にまちづくりの核となる人物となっていった。若い世代に属する江藤は、地域の昔からのいわゆる「有力者」では決してない。だがそうした「有力者」との関係も保持しつつ、新しい活動を実現していく核として、こうしたUターン経験者をはじめとする比較的若い世代の人々や一般の住民が、地域づくりのリーダーとして育っていくことが多かった。  さらにもう一点、新しい企画の立ち上げに際してしばしばみられる特徴が、町役場の側が住民の中から企画の実行の中心メンバーを選び出した上で、その人たちにその企画の内容を「任せて」しまうということである。小国町で毎年開催されているイベントの一つに、「小国町女性会議」というものがあるが(註11)、このイベントの立ち上げの過程は、いま述べた特徴が明確に表れているので、ここで取り上げて検討することにしたい(註12)。
 小国町女性会議というイベントの発案自体は役場の企画班によってなされたものであり、第1回(1994年)の場合、その企画班によって町民の女性の中から実行委員会メンバーが選び出されたのだという。しかし他方で、役場企画班はその女性たちに「やってみませんか」と呼びかけただけで、イベントの具体的な内容はまったく決めておらず、選出された実行委員会のメンバーたち自身に企画は任され、彼女たちの話し合いからイベントの内容が決まっていったのだという(酒井[1996])。
 ここで興味深いのは、第一にこうしたイベントが内発的に始まったというわけではなく、またその実行委員も「自発的」に立候補したのではなく、役場によって選ばれたということであり、そして第二にそれにもかかわらず、選ばれた実行委員会のメンバーたちはイベントの実施に対して積極的な姿勢でいるということである。あるメンバーは、「いろいろ頑張っている人は、他の人から見ても目立つし「輝いて」いる。役場の方は、そういう人たちを最初に引き上げて、使ってくれる」という内容の発言をしたという。つまり、役場の側は適任と思った人物を選んでいて、そのこと自体は選ばれた女性も認めているのだが、彼女自身はそのことに不満を持ったりはせず、むしろ「自分が頑張っているのを認めてもらえた」さらには「(自分のように)頑張っていて目立っている人を応援するのが小国のいいところ」と理解しているのである(以上酒井[1996])。この例からわかるのは、「自発性」や「元気」があるから諸活動へのコミットメントがもたらされる、というわけでは必ずしもないということである。そうではなく、選ばれて仕事や役割を任されることによって、「元気」につながる意欲が生み出され、あたかもそれが最初から自発的な取り組みであるかのようにみえてくるという面もあるのではないだろうか。
 重要なのは、選ばれた人たちに役場が企画の内容自体の決定を任せてしまうということである。つまり、「こういう内容でやってほしい」と言ったりはせず、ただ企画をやるということだけしか役場は「用意」しないのである。これは、パターナリスティックな性格を帯びていた河津町政と決定的に異なる点である。町内のほとんどの組織の長を兼任していたことに表れているように、河津はすべての指示を自ら発すると同時に、福祉の推進などを通じて住民への配慮も行うなど、きわめてトップダウン的でパターナリスティックな統治を行ったといえることは既にみた通りである。だが、具体的な内容を欠いた指示が出され、内容の決定は当事者の自由に任される――このような仕事の任せ方は、河津町政においてはあまりみられなかったものではないかと思われる。
 与えられる指示が、「こういう内容でやってほしい」というように、その内容が明確に定められているものならば、それに従う人は自分自身が自発的に振る舞っているとは決して感じず、ただ与えられた命令を遂行しているようにしか感じないだろう。だが、宮崎町政のまちづくりでは、「あなたの自由にやっていい=好きなようにやっていい」と言われるのである。つまり、指示の具体的な内容がopenなのである。それゆえに、当事者は「好きなようにやる」ことになり、自分自身では自発的に振る舞ったように感じるのである。実際、他の人からみても、その人が自発的に振る舞っているようにみえてくるはずだ。「あなたの自由に任せる」と言われるからこそ、言われた人は「自発的」に行動するのである。任されることによって自発的になるのであり、具体性のない指示だからこそ自発性が生み出されるのである。
 事実、小国町のまちづくりにおいて、めざされる地域社会のあり方として語られる言葉には、具体的な内容がopenであるものが多い。例えば、既にふれたように、「[住民自身が]住んでみたい気持ちになれる地域」をつくることが基本だと宮崎は述べている(宮崎[1994:29])。だがこれは結局「自分たちが好きなように地域づくりをするべき」と換言でき、やはりどのような地域をめざすのかは具体的にはopenであって、そこは住民にいわば「任されている」のである。また、上述した住民組織「コミュニティプランチーム」の出発点となった考え方は、「よそさまの土地に自由に夢を描く」というものであった(宮崎[1994:156-8])。地域の将来像を描くのに、各自の土地だけに限ってしまうと「夢」は広がらないが、土地は個人のものであると同時に地域に一緒に暮らす人々のものでもあるといえ、枠をはめずに自由に地域の将来像を考えてみよう――そのような気持ちがこめられているのだという。だがこれも、あくまでも「自由に夢を描く」であって、どのような夢を描くのかは基本的にopenで、住民当事者が自分たちで決めていく形になっている表現である。そしてまた、小国町が建造物の設計を建築家に依頼する場合は、「いろいろな条件をつけて、せっかくのその人の持ち味が消されてしまったのでは、何にもならない」ので、宮崎は「その人の才能が十分に発揮されるように心がけている」のだという(宮崎[1994:97])。openではない、具体的な指示を与えることによってもたらされる逆効果の存在について、少なくとも宮崎は充分に自覚しているように思われる(註13)。
明確な基準やモデルなど、具体的な命令を与えてそれに従うように言ったとしても、自ら進んでそれに従おうとする者は少ない。だが従うべき基準やモデルを与えずに、「自由にやってよい」と言われたならば、人々は自ら進んで積極的に主体化し、何かをしようとしはじめるのである。このことが、小国町のまちづくりにおける住民の「自発性」の創出にもうかがえるのではないだろうか。具体的な内容をもたない指示、「自由にやってよい」という「任せ方」――このことによって、たとえ当初は自発的ではなく他から選ばれて加わったのだとしても、やがて自発性を発揮するようになっていくのである。もちろん、これで小国町の住民の自発性・積極性のすべてを説明できるとまで主張するわけではない。だが、このようなメカニズムが現実に働いていて、それが住民の「元気」の創出に一定の役割を果たしているのは確かであるように思われる。
 コミュニティプランチームによる地域づくりの試みをはじめとする、現在の小国町で展開されている活動の広がりの様子は、「公共性へのコミットメント」という住民像がまさに実現されつつあるかのように見える。そしてこのような小国町のあり方は、これこそ「真の地方自治/住民自治の姿」であると語られることになる――あたかもこのような試みの存在こそが、小国町民の「市民意識・公共意識の高さ」の反映であるかのように。だがそのような外部からのフォーマルな評価の高さにもかかわらず、地域づくりに携わる当事者は、むしろ自分自身が楽しむという部分を持ちつつ取り組んでいるのであり、それゆえに外部からは一層「自然」で「自発的」な「元気」の発露のようにみえてくる。
 しかし、だからといって、そのような住民の「元気」や「自発性」という現象に、「伝統」「風土」「性格」「意識の高さ」といった原因を持ち出す天下り的な説明を安易に与えるべきではないだろう。むしろ確認されるべきなのは、小国町の地域づくりへの活発な取り組みを可能にしているのは、人々を動機づけることに対するある工夫ないしメカニズムが存在するということであり、そしてそれ以上に、地域社会の様々な可能性は、住民たちの間の様々な相互行為や実践を通じて実現されるのだということなのではないだろうか。公共性や地域社会へのコミットメントといった、理念や意識が人を動かしているもののすべてではない。いわばある形式に従うことによって、人は自ら動いていくのである。自発性やコミットメントや「元気」は、むしろ形式への準拠が生み出す具体的な行動の後から、事後的に見出されているものだといえるのではないだろうか(註14)。
  
 このように、小国町においては新しい形の地域社会の統合が多彩な試みを通じてめざされている。その背景には、過疎という問題を住民のコミットメントを核とするユニークな対応で乗り越えていこうという姿勢があり、そのための「しくみ」の一つが、上でみた住民の自発性の創出なのである。このような小国町の取り組みは、まさしく「公共社会としての地域社会」の実現をめざすものであり、過疎化に直面する山村に限らず、広く日本の地域社会にとって様々な示唆をもつものであるといえるだろう。

5 おわりに──「住民」とは誰か

 以上にみたような住民像を実現しながら、小国町のまちづくりは今日に至っている。だがもちろん、現在の小国町のまちづくりや地域社会にとっても、そうした住民像をもつがゆえのさらなる問題点ないし課題があることは否めない。最後にその点を確認しておこう。
 宮崎町政の背景にある住民像として、公共的な新しい取り組みに自発的・積極的にコミットする住民というイメージが存在するということは既に指摘した通りである。行政に依存するのではなく、自ら進んで公共的な諸活動の担い手・主体になることができるような住民像――だがこれは、具体的には一体誰のことなのだろうか? 「自分たちが住みたいと思うような地域づくり」と言うとき、その「自分たち」とは誰のことを指しているのだろうか? もちろん、そうした地域づくりなどに関心を持たず、したがって主体的に活動することもないような人たちも中にはいるだろう。しかし、様々な条件のために、そもそもそのような主体的な姿勢をもつこと自体が容易ではない状況にある人たちもまた、住民たちの中にいるのではないだろうか。
 例えば、高齢者はどうだろうか。小国町の高齢化率は現在既に20%を上回っており、今後さらなる高齢化の進展が予想されている。それはすなわち、高齢者中に占める要介護・要援護高齢者の比率の高まりを同時に意味しており、こうした人々へのケアがより一層求められるようになることは間違いない。だがこうした高齢者たちにとって、上述してきたような「自発的」で「主体的」な住民像のように活動することは容易ではない。個人がこうした高齢者になっていくことは、個人の「意欲」や「積極性」とは無関係にもたらされる変化である。だが上述した住民像においては、このような高齢者という立場にある住民の存在は、あまり念頭には置かれていないように思われる。
 こうした、積極的に発言しコミットすることが評価される状況の中で、実際にそのようには振る舞えない住民は、高齢者だけに限らない。東京大学教養学部相関社会科学研究室が今回実施した、小国町の住民への質問紙調査からわかったことの一つに、小国町は子どもを育てる環境に恵まれているという意見が多数を占めながらも、自由回答において「子どもが遊べるような公園がほしい」という子育て中の若い母親たちの声がみられたということがある。しかもそこで言う「公園」とは、同時に若い母親たちの仲間づくりの場としてイメージされているのである。そこから浮かび上がってくるのは、小さな子どもの子育て中であるために、外に出たり仕事につくこともできず、その結果友達や仲間をにつくることが難しい状況にある彼女たちの、孤独感や閉塞感である(以上酒井[1996])。彼女たちのような存在やその希望を、自発性と主体性を強調する住民像が十分に拾い上げることができるとは考えにくい。
 このように、自発的・主体的にコミットする住民像のもとでは、様々な条件のためにそもそもそのような形でのコミットメントが困難であるような住民の姿を見失ってしまいかねない。しかも、そうした住民たちが結果として積極的に発言しない(できない)ことが、こうした住民像のもとでは、あたかも彼ら/彼女らの側に求めるニーズや意欲などがないから発言していないかのように映じてしまうのである。だが実際には、こうした人々にも切実なニーズがあることは既にみた通りである。
 こうしたことによって、「何が地域社会の問題なのか」という課題の定義自体も影響を受けかねない。つまり、何が地域にとって問題であり、何がそうでないのかということが、あのような住民像を体現しうるような人たちの視点からしか定義されかねないということである。土地利用の計画や地域のイベントといった、いかにも「地域社会の問題」であるようなタイプのものだけでなく、幅広い課題を地域社会が担っていこうとするならば、問題の定義が限られた人たちの視点からのものになってしまうことは、決して望ましいことではないだろう。
 「自分たちが住みたくなるような地域づくり」とはいっても、その「自分たち」は周囲の人たちのことぐらいであることがしばしばで、その「自分たち」を本当に多様なニーズを含み込む幅広い「自分たち」としてイメージすることは決して容易なことではない。だが、「公共社会としての地域社会」という課題は、多様な人々の地域社会における共存を伴うものであったはずだ。自発的・主体的に声を上げる「参加」というスタイルに加えて、見落としがちな声を聞き取る「対話」というスタイルのようなものを加えることが、例えば求められているのかもしれない。
  
 「頑張れば何とかなる」。これは梶田[1997]によれば1980年代以降に市町村間に生まれてきた風潮であったという。小国町では、梶田が検討した行財政の面のみならず、河津・宮崎のいずれの町政においても、住民の「頑張り」を喚起することがめざされてきたといえ、そして結果的にその「頑張り」を引き出すことに成功したといえる。実際、現在の小国町が活気に満ちた町という印象を与えるのは確かであろう。「過疎」と呼ばれる問題が、現実に人口の減少が進むということ以上に、住民の「元気」自体に打撃を与え、「頑張る」こと自体をそもそも困難にしていくものであるということを考えるならば、住民の「頑張り」や「自発性」を喚起することに一定の成功をおさめた小国町には、やはり全国から注目を集めるに相当するものがあるといえよう。しかし、同時にそこには既にみたように、まだ解決されるべき点もあるように思われる。
 小国町議会は、1996年3月に「みんなで考えみんなで創るまちづくり条例」を可決した。新たにまちづくりを担う中心的な組織として、「まちづくり協議会」という会がつくられたといい、今後さらに新たなまちづくりの展開が予想される。まちづくりの立ち上げ期を終えた小国町が、上述の――より長期的なものであると思われる――課題にどう取り組んでいくのか、大いに注目される。ここでみてきた小国町の課題は、同時に日本社会全体の課題でもあるともいえるからである。
 「公共社会としての地域社会」という問いは、さらなる考察を必要とするものである。そしてその作業は、まだ始まったばかりである(註15)。

〈註〉

(1) 以下、註も含めて文中での敬称は基本的に省略した。
(2) 今日でもこのことは変わっていない。
(3) 明治期から大字という単位の存在が大きく、現在に至るまで大字への帰属意識が高いということから、大字という単位はあたかも近代以前からの長い歴史を持つ「伝統的」でnativeな共同体であるかのようにみえるが、実際には必ずしもそうではないようである。小国町および隣接する南小国町の二つの町は、古くから合わせて小国郷と呼ばれていた。江戸時代の末期には小国郷に25ヵ村があったが、1870(明治3)年には肥後藩の藩政改革により10ヵ村となり、さらに翌年には再度の統廃合により9ヵ村となる。1889(明治22)年の町村制の施行に伴い、そのうちの北6ヵ村が北小国村となり、1935(昭和10)年に町制が施行され小国町となる。六つの大字は、遅くとも町村制施行時には町/村を構成する単位としてある程度の確立をみていると思われるが、制度的には1870(明治3)年の藩政改革以前には遡れず、それ以前はより小さな集落の単位と同等ないしそれ以上に明確な単位としてあったとは考えにくい。
(4) この数字は神田[1988:83]による。
(5) 1959(昭和34)年2月8日に、要綱に基づいた払い下げ実施が議会で可決されたことは小国町役場で確認できたので、本論文ではこの1959年を払い下げの実施が始まった年だと考えることにする。川島他[1959:229]には、1958(昭和33)年に町議会で「町有牧野払下要綱」が議決されたとあるが、これについては確認できなかった。
(6) 河津自身の言葉。川島他[1959:227]による。
(7) 河津町政にみられる、効率化=合理化から経済的メリットを生み出すことをめざすことや福祉化といった特徴は、小国町のみならず戦後日本社会のあり方の基調にも通じるものであったと言うことも可能かもしれない。このような政策のスタイルが、同時に地域社会の既存の農村的=共同体的なあり方に正面から変容を迫るものであったのは確かである。
(8) 小国町のまちづくりのビジョンについては、『小国ニューシナリオ』(地域総合研究所[1991])を参照のこと。
(9) このことは、宮崎町政下において経済的な発展への志向がうかがえないという意味では決してない。あくまでも、それが町の過疎化という問題に対する決定的で最優先されるべき策としてはみなされていないという意味である。
(10) コミュニティプランチームの前身である「土地利用計画チーム」が編成されたのは1991(平成3)年のことである。各大字につくられた土地利用計画チームは、メンバーの討論を通じてそれぞれ自分たちの住む地域の将来像や基本構想をまとめ、それを行政に反映させようという組織で、現在ではそれが発展して「コミュニティプランチーム」というまちづくりのための組織として各大字に存在している。全体の取りまとめは町が行い、また会合にはしばしば町役場の企画班のメンバーがオブザーバー的に加わるようである。ただこれは全戸参加のいわゆる「町内会」とは異なり、参加者は30〜50歳の、地域の比較的若い層が中心である。
(11) 小国町女性会議とは、「女性の休日」を目的として、「女と男のパートナーシップ」などをテーマに、1994年以来年一回実施されているイベントである。詳細は酒井[1996]を参照のこと。
(12) このことは、小国町女性会議が小国町のまちづくりにおいて必ずしも典型的なイベントの事例であるということを意味しない。ここでは、あくまでも企画の立ち上げの過程の例として挙げている。
(13) 他にも、様々な活動に携わっている町民の方々へのヒアリングの際に、「[そうした活動を通じて]まず自分たちが楽しむことこそが重要だ」という言葉を聞くことがしばしばであった。これもまた、「何をすれば自分たちが楽しめるのか」がopenである。そして実際に自分たちが楽しめる活動をするからこそ、現実に楽しむことになる、というようにトートロジー的に展開しながら、活動自体も進んでいくことになるのである。この「自分たちが楽しむこと」を重視する姿勢は、宮崎の著書からもうかがえる(例えば宮崎[1994]の第一章は「楽しみからの出発」と題されている)。
(14) 他にも、小国町のまちづくりにおいては、似た性格をもつ組織が既に存在していても、新たに同種の組織をつくることを通じて、双方の組織を刺激して活動を活発化させるという特徴もみられる。だがここでは紙幅の関係もあり、この点については指摘するにとどめておく。
(15) 本論文は久木元の単独執筆によるものであるが、研究の基礎ないし出発点には、石原英樹氏(現千葉大学大学院社会文化科学研究科助手)と久木元の共同研究(石原・久木元[1996])がある。氏に記して感謝する。

〈文献〉

  • 地域総合研究所(編) (1991) 『小国ニューシナリオ:『悠木の里づくり』二十一世紀への道筋』熊本県阿蘇郡小国町.
  • 石原英樹・久木元真吾 (1996) 「部−組と大字協議会:小国町における地域自治組織をめぐって」(東京大学教養学部相関社会科学研究室[1996:38-62]).
  • 岩片磯雄 (1956) 『阿蘇牧野の所有と利用:熊本県阿蘇郡小国町の調査報告』九州大学農学部.
  • 梶井功 (1959) 「寄生的牛馬小作制下の部落有林統一と牧野利用:熊本県小国村の例」近藤康男(編)『牧野の研究』東京大学出版会, 214-223.
  • 梶田真 (1997) 「むらおこし・まちづくり事業と地方財政:熊本県小国町を事例として」『相関社会科学』6:88-99.
  • 神田一二三 (1988) 『覚書 河津寅雄:歩いた道とこころ』熊本日日新聞情報文化センター.
  • 川島武宜・潮見俊隆・渡辺洋三(編) (1959) 『入会権の解体 I』岩波書店.
  • 宮崎暢俊 (1994) 『とっぱすの風:小さな国の大きな挑戦』七賢出版.
  • 農業漁業基本問題調査事務局 (1960) 『山村経済に関する実態調査報告』農業漁業基本問題調査事務局.
  • 大森彌 (1990) 『自治行政と住民の「元気」:続・自治体行政学入門』良書普及会.
  • 酒井千絵 (1996) 「多様な女性のあり方をめざして:小国町女性会議の問題点と新たな活動のために」(東京大学教養学部相関社会科学研究室[1996:351-364]).
  • 堺正紘 (1980) 「熊本県阿蘇郡小国町」『市町村段階における林業行政の展開状況と効果的なあり方の検討に関する調査報告書(I)』林野庁企画課, 101-222.
  • 東京大学教養学部相関社会科学研究室(編) (1996) 『熊本県小国町のまちづくりに関する学術調査:最終報告集』東京大学教養学部相関社会科学研究室.



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