
ここでは、都筑郡を通ったと考えられる官道について考察する。
武蔵国府が建設されたのが八世紀前葉とされている。武蔵国は、宝亀二年までは、東海道に属さず東山道に所属していた。 武蔵国府に大和方面から来るには、中山道を上野国より南下する東山道武蔵路を利用していた。
武蔵国府から相模国府(現在も相模国府の位置が定かではなく)に至るには、海老名市に有る相模国分寺跡辺りを 目指し南西に下ったと考えられる。しかし、同じ幅、直線とは限らない。
JR「西国分寺駅」の東にある東山道武蔵路の側溝。側溝から側溝までの幅は12mある。本道は地下に保存し「レプリカ」を公開している。
『続日本記』神護景雲二年(768)三月
下総国の井上・浮嶋・河曲の三駅と武蔵国の乗潴(アマヌマ)・豊島の二駅は、東海・東山両道につながる駅なので、 公使の送迎など、使者の往来が頻繁なので、中路に准じて各駅に馬十匹を希望する。
と、巡察使が奏上した。
『続日本記』宝亀二年(771)十月
武蔵国は、元来、東山道に属しているが兼ねて東海道にも通じている。そのため、公使の往来が繁多で、 それを丁重に世話する労に堪えられない。東山道の駅路は、上野国新田駅より下野国足利駅に達しているが、 この路は便利である。
しかし、現在では、路を無理にまげて上野国邑楽(オバラキ)郡より五つの駅を経て武蔵国府に至り、戻るときは、 また同じ道を経由して下野国へ向かう。〔この路を東山道武蔵路という〕
今の東海道は相模国、夷参駅より下総国に通じているが間には四駅があって往来するのが便利で近い。しかし、この路をやめて、 東山道武蔵路を採ると、損害が極めて多くなるので武蔵国を、東山道に所属している事を改めて東海道に属させると、公私ともに都合がよくなるし、 人も馬も休息が出来るのでその様にして欲しい。
太政官奏上。
武蔵国府のあった地、大国魂神社(六所宮)と、その近く国府跡の発掘現場(2004.06.16)
しかし、『延喜式』兵部省、駅伝条、延長五年(927)になると官道の位置も変化したようである。
相模国駅馬・・坂本、廿二疋、小総・箕輪・浜田、各十二疋 相模国伝馬・・足上・余綾・高座郡、各五疋 武蔵国駅馬・・店屋・小高・大井・豊嶋、各十疋 武蔵国伝馬・・都築・橘樹・荏原・豊嶋郡、各五疋 下総国駅馬・・井上、十疋、浮嶋・河曲、各五疋、茜津・於賦、各十疋 下総国伝馬・・葛飾郡、十疋、千葉・相馬郡、各五疋
『神奈川県』(改定郷土史辞典14 稲葉 博 編)
小田原市東北。旧府中村千代に、千代廃寺跡が有る。直径1mをこえる礎石が三十余りも点在し、蓮華文、飛雲文、 葡萄唐草文等の天平(725〜749)から平安初期にかけての古瓦をはじめ布目瓦が出土した。伽藍配置は東大寺式と 考えられこれが最初の相模国分寺ではないかと考える人もいる。
平安時代の相模国府については『新編相模国風土記稿』にある高座郡国分村(海老名市)が今のところ有力な故地 とされている。付近に条里制も残っており、式内社の有鹿(アルカ)神社も近い、国分寺と思われる寺院跡がある。 ただ、寺院跡が東大寺式ではなく法隆寺式という問題が有る。
中期(八〜十一世紀)頃の国府は、大住郡(平塚市)にあった。平安後期(十二世紀)頃は、余綾(大磯町 国府本郷)へと移動した。
『古代相模の方位線』(野麦書房 向井鞠夫 石川邦夫 共著)
周辺の神社仏閣や、ご神体山等により、方位線に基づいて相模国府の国衙を「秦野市役所」辺りと推定している。 方位線とも関連があるが「四神相応」の地を選んだ。
『五百年前の東京』(批評社 菊池山哉 著)
按うに『延喜式』相模の兵部省の駅馬駅伝には伝写に誤りがある。と云うのは当時相模国府は余綾ではないのに 余綾郷が入り、余綾を迂回して四駅の空間が六里八里となり其の間に酒匂川馬入川があるので、僅かな駅馬では 事足りるわけがない。(略)
小総駅と言い浜田駅と言い其の所在まったく不明である。按うに兵部省の駅馬は国家急変あった場合にハヤウマ を飛ばす意図も含まれ、民部省のものではないので、最短距離を撰ばなければならない。
相模にして見れば足柄を越えて坂本と成り、それから秦野を経て箕輪駅へ入り国府を通って夷参駅となり、 そして店屋、小高と次第する順路とし、小総、浜田は恐らく改竄である。
『幻の国府を掘る』(雄山閣 寺原光晴 早川 泉 駒見和夫 編)
相模国府をJR平塚駅の北、2km程の場所を推定している。大住国府跡である。北東には、相模四の宮、前鳥神社 がある。現在まで、国庁が発見されていない。(略)
ちなみに、前鳥神社境内からは富士山は、真西にあたる。東山道武蔵支路は、座間・海老名を経て、 ここまで延びてきたのであろう。支路は、せいぜい9m以下だと推定する。
(2004年4月、平塚市東中原1−114−4に於いて奈良時代〜平安時代の駅路が発掘された。大変貴重な成果である。 平安時代の大住国府の一部と推定される)
相模国府と相模国の各郡衙(郡家)が何処にあったのかは、都筑郡衙を通過した官道を調べるのに、より正確さを期した次第である。
相模国府の場所は、四ヶ所ほど数える事が出来る。国府の移動は、その時代に土着していた首長の権力掌握により、 大和王権との政治的、経済的な利害により変化したものと考えられる。同時に、自然災害も影響したであろう。
天応 元年 781 富士山噴火 延暦 十九年 800 富士山延暦の大噴火 延暦二十一年 802 富士山噴火 足柄路塞がり、箱根路が官道となる 延暦二十二年 803 旧道を官道に復する 弘仁 九年 818 関東大地震に襲われる 元慶 二年 878 相模大地震 国分寺の像、破壊 元慶 四年 880 関東大震災 天慶 二年 939 相模、武蔵等大地震
上表のような状態なので、国府や郡衙の移転、それにともなう官道の移動も当然かもしれない。
「四神相応」とは、四方の神である四神に、それぞれに応じた貴地である。東に、青竜(川・流水)・西は、白虎( 路・道)・南は、朱雀(低い土地)・北は、玄武(丘陵・山)という神獣があてられている。
これは、高松塚古墳やキトラ古墳の壁画等で知る事が出来る。「鐵神社」もこの条件を満たしている。
特に興味を引かれるのは『五百年前の東京』である。「按うに兵部省の駅馬は国家急変あった場合に・・最短距離が撰 ばなければならない」
坂本を発した早馬は、大住国府・武蔵国府に立ち寄らず一路、下総国府に疾走した。これは東北経営にも大きく関わる 伝路の可能性も否定できない。
南房総へ以前の古代交通は、神奈川県三浦半島の走水から海路を使い下総に北上した。 東山道からの武蔵入りが容易になったので、安房・上総の上納品の運搬が危険な海路より陸路に変わったと考える。
馬駅は三十里(22km)毎に設けられたという。
坂本(関本)から小高(多摩川近く、橘樹郡衙)まで直線距離で55kmである。
小高から井上(下総国府近く)までは、直線距離で32kmである。
山や沼地を考慮すると2倍の距離に近いだろう。
坂本から小高までは5駅(110÷5)
小高から下総まで3駅(64÷3)
は、妥当な距離である。
夷参は、坂本、小高、間と武蔵国府から相模国府へと繋がる重要な交通の要衝であったと思われる。
都筑郡衙の場合は、谷本川(鶴見川)左岸にあり、武蔵国府から久良岐郡へ通じる交通路と、坂本、小高 へ向かう要衝であったと考えられる。
相模東部・武蔵南部から、また、安房・上総・下総の人間や物品の処理が武蔵国衙に集中したので771年、早馬は 下総国衙へは乗潴駅を経ずに行ったと考えられる。
大井駅家は、現在の海に近い所ではなく立会川や目黒川の上流域辺りに有ったという説もある。その道は東京側の 中原街道あたりの内陸部を通行し江戸城辺りを経て北東の方面へ向かったのであろう。
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相模国分寺跡の礎石