『眠る犬のいる風景』
by.mura




 断じて犬を飼うべきではなかった。
 ましてやそれが愛くるしい仔犬などではなく、何の雑種かもわからない不細工な大型の駄犬で、盛りをとうに終えた十歳の雄だったりした場合、尚のことである。しかもそれが、十年前に別れた妻から遺言で押し付けられたものなら、何が何でも拒否すべきだったのだ。どう考えても、嫌がらせ以外のなにものでもないではないか。
 それをついつい引き受けたのは、息子の嫁が、
「じゃあ、保健所に引き取って貰うしかないかしらねえ〜」
と、事も無げに呟いたのを聞いてしまったせいだ。私にプレッシャーをかけるのが目的の聞こえよがしの発言だったわけだが、不覚にもこれに引っ掛かってしまったのである。あの薄情な嫁なら、老犬とは言え生あるものを、己が良心に何の咎めるところもなしに、保健所に追いやるだろうから。
 そんなわけで、茶と白と黒が奇妙に配色された毛皮を纏った、四肢と顔の無駄に長く尻尾の短い、誠に不細工な大型の雑種犬を飼う羽目に陥ってしまったのだった。元妻の初七日終了後、昔住んでいた家の縁側に座り、庭に繋がれた犬を困惑の面持ちで見つめていた私は、自分の孫に当たる小学校低学年の男の子に尋ねた。
「この犬の名前は何と言うのかな?」
 すると、携帯ゲームの画面から顔を上げた男の子は、チラチラッと無関心な視線を私と犬に振り分けながら、
「お祖母ちゃんはタロウって呼んでたけど?」
 うとうと居眠りしかけていた犬は、呼ばれたものと勘違いして、
「ワン!」
と、こっちに向かって吠えると、短い尻尾をお愛想に振ってみせた。
 ……私の名前は、高橋”太朗”(タロウ)と言う。
 やはりこの犬の件は、亡き妻の嫌がらせだったのだ。
 嗚呼、断じて引き受けるべきではなかった……。

「―――そこの二人。教室から出て行きなさい」
 私は、岩絵具のついた絵筆でつっつき合い、いちゃついていた男女の学生二人をまっすぐ見据えた。茶髪にピアス、ヒゲまで生やした生意気な若造が、顎を突き上げ、こっちを睨み返したが、もう一度、
「出て行かないと叩き出す。出て行きなさい!」
と、強く言うと、女子生徒は引っ手繰るように荷物をまとめ、男子生徒は机を一発ガーンと蹴飛ばして、不貞腐れて出て行った。先日、別な授業の、ヌードデッサンの時にも、この男子生徒はモデルにふざけた振る舞いに及ぼうとしたので、このときは文字通り教室から叩き出してやった。だから、この講師はやると言ったらやる、と、骨身にしみて学習したのだろう。
 彼は極端な例だが、最近の子ども達は甘やかされているのか、どうも芸術に真摯に取り組む姿勢が感じられない。ここは美大予備校なので、芸大や、私立のトップ美術大を狙う生徒が通って来ているはずなのに、遅刻や授業中の私語、携帯電話などというのは問題外として、技量面でも、少し強く注意されたり貶されたりすると、泣き出したり、次からは授業をボイコットするような者もいる。
 芸大にストレートで入学し、優秀な成績で卒業、将来を嘱望されていた才能溢れるこの私ですら、画壇ではさほどパッとせず、こうして講師として食い繋ぐ日々なのだ。凡人どもが怠けていては、志望大学合格すらおぼつかないだろう。なので、将来のためを思って厳しく指導しているのだが、師の心弟子は知らず、である。 
 繰り返しになるが、私の名前は高橋太朗、六十歳。職業、美大予備校の講師。担当科目は、基礎デッサン、日本画の論理と実技。

 ボンクラ学生たちの相手を終え、重い足取りで、電車で四十分の帰路についた。今まではこんなことはなかった。どんなに出来の悪い生徒たちに悩まされても、一歩家に入れば癒されると知っていたから。そう、私は実に気楽で満ち足りた独り暮らしをしていたのだ、あの駄犬が来るまでは。
 授業のない日は、好きな時間に起き、気が向いたら筆をとり、夕方には独り晩酌を楽しみながらナイターを観る……そんな静かな日々を送っていたのだ。それが、あの駄犬ときた日には、朝起きるが早いか、即散歩。それで満足すると思いきや、夕方になればまた散歩だ。私が腰を上げるまで、ワンワンギャンギャン吠え続ける。
 今日も、私が帰宅するなり、そのワンワンギャンギャンが始まった。私は、ため息をついた。
「高橋さ〜ん! 犬飼うのはいいけど、無駄吠えはさせないで下さ〜い!」
「申し訳ない! 今すぐやめさせます!」
 私が借りている家は、元は大家宅の離れだったので、両家屋の距離は近く、犬が騒げば被害は当然そちらにも及び、このように私が苦情を言われるのだ。
 で、着替える暇もなく、渋々散歩に出かける羽目になったわけなのだが、何ゆえこの、人品卑しからぬお洒落な紳士たる私が、ウンチ袋を持って駄犬の尻の後をついて歩かねばならんのだ? と、心底情けなくなる。しかも、あのバカ犬は、私がまだ糞処理をしている最中に、ああスッキリした、とばかりグイグイ歩き出し、
「あっ、待て! ちょっと待てと言うのに、このクソ犬は〜!」
 全部取りきる前につんのめり、残りを思いっきり踏んづけてしまった……これでいったい何度目だろうか!
 河原まで連れ出し、近くの木に駄犬を繋いで腰を下ろし、スケッチを試みた。ただ犬の散歩に時間を無駄にするのではなく、少しでも有意義に過ごしたかったからだ。が、一見のっそりと鈍な外見をしているくせに、バカ犬は落ち着きのない性格らしく、私が絵を描いている周りをウロウロ、ハァハァと匂いをかぎながら歩き回り、私をリードで絞め殺しそうになった。
 スケッチを諦め、駄犬を家に連れて帰って、庭を見てまたため息だ。駄犬は庭の隅を思いっきり掘り返し、私が画材にしようと大事にしていたカイドウの木を、台無しにしてくれていたのだった。
 そして夜は夜で、庭で凄まじく鳴くので、また大家に苦情を言われてはたまらんと、家の中に入れ、玄関で寝かせたところ、翌朝起きてみたら、私のよそ行きの一番上等のバックスキンの靴の上に粗相(大小両方)してあった。
 私はあまりのことに呆れて、言ってやった。
「お前みたいな馬鹿な犬は初めて見たよ」
 馬鹿なりに、何やら失策を犯したことだけは感じ取れるらしく、駄犬は私に尻を向け、玄関の隅に鼻を埋めて、コソコソしていた。
 やはり、断じて、こんな犬は飼うべきではなかったのだ……。

 その思いは、休日のある日、駄犬をスーパーの買い物に連れて行ったとき、更に強まった。犬の散歩と、夕食の買出しをいっぺんに済ませよう、などと言う横着心を起こした私もいけなかったのだが。
 犬を、スーパーの入り口にある、細い木の幹にでも括りつけておこうかと、駐車場を横切ったとき、駄犬は通りすがりの中年女性のスカートに、パクッと噛み付いたのだ! いきなり、図体のでかい可愛げのない犬に、スカートとは言え噛まれたのだ、女性は驚きと恐怖の悲鳴をあげた!
「やめろ! やめるんだ、バカ犬!」
 叱りながらリードをグイグイ引っ張っても、駄犬は女性のスカートを離さない! しまいには、ビーッと一部が裂け、女性は尻餅をついた! 犬がスカートを一部裂き取ったせいで、スリップと言うのかシュミーズと言うのか知らないが、その中年女性の歳の割に派手な色の下着が露出してしまい、
「酷い! 何てことするのよ、この、エロジジイ!」
と、彼女は助け起こそうとした私の手を、バシッと叩いた! とんでもない誤解だ、そんな美しくないもの、何でこの私が見たいものか!
 私は腹立ち紛れに、駄犬の頭を叩き、
「離せ、こらッ!」
と、この期に及んで尚くわえて離さないスカートの端布を引っ張って奪い取った! 駄犬は、布をくわえなおすつもりだったのか、それともお気に入りを奪われて怒ったのか、その私の手をガブッと噛んだ!
「痛ッ! 何をするか、このっ!」
 私はカッとなって、駄犬の腹を足で蹴った! 犬は、ぎゃわわわん、と、叫び声をあげ、リードを引きずったまま、凄い勢いで逃げ出した!
「あっ、おい、待てッ!」
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
 先程の中年女性が私のサマーセーターを思いっきり引っ張って、
「行くならスカートの弁償してから行ってちょうだい! それが飼い主の義務ってもんよ!」
 どうみても量販店の安売り三千九百円、としか思えないスカートの弁償金として、二万円を請求された。被害甚大だ。月末までどうやって暮らせと言うのだ。

「おおい、犬! バカ犬!」
 私は大声で呼ばわりながら、駄犬を探し回った。あんな犬でも車に轢かれて死にでもしたら、私の寝覚めが悪い。こんな真っ当な、自分の性格が呪わしい。
 住宅街や公園で、刑事よろしく聞き込みをしながら歩き回ったが、情報は得られなかった。あんな大きくて不細工な、特徴ある外見の犬がこの辺をうろついていたら、必ず目に付くと思うのだが。
 あたりは暗くなってきた。お陰で買い物は出来ず、空腹で、脚は痛くなり、心身ともにくたくただ。おまけに、スカートの弁償金を支払って、財布の中身も悲惨なことになってしまった。
 ……スカート?
 そのとき、ふと、そう言えば元妻はよく、あの女性のものに似たスカートをはいていたっけ、と思い出した。妻は若い頃から片方の足が少し不自由で、それを隠すためか、いつも長くてヒラヒラしたスカートを愛用していたのだった。あの駄犬は、今は亡き飼い主を思い出し、良く似た他人のスカートに戯れかかったのではないだろうか……?

 昔私が妻と住んでいた家は、現在の借家とは電車の駅にして三駅程度の距離だ。が、歩くと小一時間ばかりかかる。私は、駄犬の姿を探しながら、その小一時間を歩きつめた。
 足が棒のようになった頃、かつての我が家のある区画に入った。曲がり角を曲がると、ヒステリックな女の声が聞えてきた。息子の嫁の声だ。
「この、バカ犬! 汚らしい! シーッ! シーッ!」
 庭の方へ廻り、垣根越しに様子を見ると、息子の嫁がほうきを振り上げ、あの犬を、開け放した縁側から外へと、追い出そうとしているところだった。犬は、そうはさせじと唸り声をあげ、歯を剥きながら、右へ左へと逃れている。犬が必死に戻ろうとしているのは、いつも妻が座っていた、和室の片隅の座布団のある場所だった。
 一緒に暮らしていた頃は、妻が座っている前で、私は浴衣姿でごろりと横になり、片肘を立ててTVを観ていたものだった。一瞬、そんな、過ぎし日の幻影が、見えるような気がした……。
「ちょっと! パパ! 早くお義父さんに電話してよッ! あの犬が勝手に家に入り込んで困ってます、って!」
 息子の嫁は、奥の部屋に向かって叫んだ。
「冗談じゃないわよ! お祖母ちゃんが死んで、この犬もついでに厄介払い出来たと思ったのに……」
「電話するには及ばんよ」
 私は、木戸を開け、ゆっくりと庭へと入って行った。息子の嫁は、ほうきを振り上げたまま、ポカンと口を開け、間抜けた面をした。
「犬を逃がしたのは、私が悪かった」
と、とりあえずそのことは素直に詫びたが、
「しかし、この犬も、寂しくて、思わずあれと一緒に暮らした家に舞い戻ったんだろうよ。そんなに邪険にするものじゃあない。犬にも、死んだ者にもな」
と、普段、仕事の時以外は封じ込めてある眼力で、ジロリと嫁を睨みつけてやった。あの女にしては珍しく、この一瞥で震え上がった。
 私が、
「おい。行くぞ」
と、リードを取り、首を軽く引っ張って促すと、犬は思いのほか素直に、私の言葉に従った……。

「おい、バカ犬。おまえ、あれが死んで、寂しいのか」
 川沿いの道を、自宅へ向かって歩きながら、私は、うなだれた犬にそう声をかけた。犬はとぼとぼ歩き続け、答えはなかったが、
「そうか。私も、どうやら、そうらしいんだ」
と、私は小声でこっそり告白した。
 今は亡き飼い主の面影を、必死で捜し求める犬の姿を見て、思い出してしまった。いろいろあっても、自分もやっぱり彼女を愛していたということを。せっかく独りで気楽に暮らして来たのだから、今さらそんなことは思い出させて欲しくはなかった。
 やはり、私は、犬など飼うべきではなかったのだ……。

 あの一件があって以来、犬の様子は、奇妙なほど落ち着いた。以前のように無駄に吠えることもなくなり、散歩の時も私をグイグイ引っ張ることなく、静かに脇を歩くようになった。庭木の被害も減り、夜玄関内に入れても、粗相をすることもなくなった。
 そして、今までは私に対しては、決して凶暴でも無愛想でもない代わり心ここにあらず、といった接し方だったこの犬は、最近では何ともいえない目の色で、しげしげと私の顔を見上げるようになってきた。それは「元妻は何でこんな駄犬を可愛がっていたのか」という私の今までの思いを払拭するような、愛しげな表情だった。
 元の家に戻っても結局は飼い主には会えず、やっと諦めて私をご主人様と認めたのか。それともまさか、同じ寂しい者同志としてのシンパシーを、私に抱くようになったのか、生意気な。
 庭の色づき始めた紫陽花のそばで、ウトウトうたた寝をしているこの犬を改めて見直してみると、最初に感じたほど不細工にも思えなくなってきたのが、我ながら不思議だった。白、黒、茶の斑に覆われた身体が、青い紫陽花の傍に長々と延べられている様子など、一種の風格さえ感じられるほどだ。
 と、言うことで、最近では紫陽花の傍で眠る犬の姿をモデルにして、絵を描き始めた。久しぶりに「描きたい」と思うテーマに出会った、それがあの駄犬とは、我ながらどうかしてると思うのだが、これはもう自分ではコントロール出来ない衝動のようなものだ。熱に浮かされたように毎日夢中で犬のスケッチを重ね、やがてはそれを本格的な絵として起こそう、と思うまでになった。
 前にも少し触れたように、私の専門は日本画である。一般的に日本画と言うと水墨画、それから、岩絵具(岩を粉にした顔料)を膠と水で溶き、和紙や絹に描いたものを言い、私も授業でそういう基礎的なところも教えているのだが、現在では膠に代わる化学合成物も発明され、アクリル絵の具等を使い自由に表現する作家も出てきていて、日本画という定義自体があやふやになって来ている。
 ただ、私は、いわゆる日本画の”心の癒し”の雰囲気、あれだけは譲ってはいけないと頑固に思う者である。何でもアリの最近の日本画の世界だが、それを感じさせないものは、例え和紙に墨や岩絵具で描かれたものであっても、私は日本画とは認めない。また、日本画には『画道精進』という言葉がある。対象の中にある”美”を追求し、精進して行く求道者、それが日本画家だと思っている。
 私の胸の中は、不細工な犬の中にも”美”を追求する、自分の『画道精進』の心意気と、”癒し”を伝えてみせる、という情熱が湧きあがっていたのだった。
 なにものかが私の上に降臨したかのように、まさに”憑かれたように”私は暇さえあれば絵筆を執り、日によっては寝食すら忘れ、かなりのスピードでその絵を仕上げていった。ユックリ時間をかければ名作が描けるというものでもなく、勢いに乗って描いたその絵は、私のこれまでの人生における最高傑作となった……。

 犬を画材にとったあの絵を描き上げて、一週間ほどが過ぎたある日、私は予備校の廊下で、後ろから、
「せ〜んせ!」
と、ドラ声で呼びかけられた。
 振り返るとあの青年、私がしょっちゅう教室から追い出す、茶髪にヒゲにピアスの男子生徒だった。名前は西山と言った。私は顔をしかめ、
「何かね。言っておくが、デッサンの授業の単位はやれんよ。君の場合、そもそも出席日数が……」
と、言い掛けたが、西山は遮るように、
「先生さァ。N―――展の日本画部門に、出品しただろう?」
と、私の耳元に囁いた。私は、内心、ギクッとした。
 実は、あの作品を、かなり権威もあり名前も通っている賞に応募してみたのだった。力試しをしてみたい、今の自分の実力がどの程度のものか知りたい、という欲が出てきたからだ。若い頃は幾多の賞に輝き、賞賛を浴びたものだったが、今ではそれが通用するかどうか不安で、もう何年もの間「自分は賞には無関心」というポーズを装い、避け続けてきた。前回の応募が何年前だったか、思い出せないほどだ。しかし、それにしても何故、今回の出品のことを、このボンクラ学生が知っているのか……。
 疑問が顔にありあり出ていたらしく、西山は、
「俺んちの親父、そこの運営委員だも〜ん」
と、ふざけた調子で答えた。
 そうだった、こう見えてもこの西山と言う生徒、かなり名の知れた”日本画の大家”の息子だったのだ。こいつの父親が運営委員と知っていたら、N―――展になぞ、出品しなかったのに。
「何描いたか知んないけどアンタさあ、受賞出来るとでも思ってんの?」
 西山はガムをクチャクチャやりながらニヤついた。
「才能ねえから、こうやって、美大予備校の講師なんかやってんだろ? でなきゃ今ごろ、絵だけ描いて生活してるもんなァ」
「私の賞の心配より、自分の受験の心配をした方がいいんじゃないか」
 私は出来るだけ冷静を装い、ヒョロヒョロと背ばかり高い西山を気持ちで見下すようにして、
「もう三浪してるんだろう。真面目にやらないと、永遠に芸大には入れないから、そう思え」
と、言って、踵を返した。幼稚な西山は、いつものようにカーッと頭に血が昇ったらしく、
「いいか! アンタが落選したら、そのグッドニュースを学校中にお知らせして回ってやるからよォ! 楽しみにしとけよ、老いぼれ!」
と、私の背中に向かってわめき散らしていた……。

 西山ごときの前で、顔色一つ変えなかった自信はあるが、実は彼の言葉は正確に私の痛いところを射ち抜いていた。
 ―――受賞できるとでも思ってんの?
 ―――才能ねえから、美大予備校の講師なんかやってんだろ?
 ―――落選したら、学校中にお知らせして回ってやるからよォ!
 よく「全然自信がないけど応募してみた云々」と言うような馬鹿者がいるが、そんなわけはない。全く自信がなくて、誰が応募などするものか。私も、あの作品には自信があった。自分としては今までにない、斬新な構図をとり、そして今まで得た全ての技術と、創作の魂をそこにこめたつもりである。そして、一批評者としてあの作品を見たとき、何らかの賞の受賞に値すると思ったからこそ、N―――展に応募してみたのである。
 しかし、と、自分を省みる。果たして、自作への愛情で目が眩むことなく、冷静に判断出来ていたのだろうか。あれは誰が見ても本当に、素晴らしい作品だったのだろうか。”親の欲目”ではなかったと言い切れるのか?
 確かに西山の言う通り、自分には絶対に才能があるいうと確信が持てれば、彼の父親のように、絵だけで身を立てていただろう。それがなかったからこそ、私はいつも、一方で、”教える道”を選択してきたのではないのか。絵画教室、短大や大学の講師、美大予備校の講師。
 そして、白状すると私はもともと、見栄っ張りで功名心が強い人間だ。なので、西山の「落選したら触れ回ってやる」という捨て台詞は、私を非常に憂鬱にさせた。生徒はもとより、予備校の他の講師たちも、どれだけ陰で私を笑うことだろうか。私はそれに対し、いつものポーズを保っていられるのだろうか……?
 そんな、うつうつと楽しまない日が二週間ほども続いたある日。その日は朝から雨で、私はますます重い気持ちで帰路を辿っていた。家の近くで豪雨となり、雷まで鳴り出したので、私ははねを上げながら駆け足で家へのステップを踏んだが、ふと、ポストに目をやり、はみ出している封筒を見て、ある予感でドキッとした。雨にぬれそぼった若草色の封筒をポストから引き抜くと、私はもどかしげに玄関に鍵を突っ込み、乱暴にガラガラッと引き戸を開けると、中に飛び込んだ!
 雨のため、昨日の夜から玄関内に入れておいた犬は、驚いたように私の顔を見上げていたが、今はそれどころではなかった。若草色の封筒は、案の定、例のN―――展からの通知だったのだ。私は開け放った引き戸を閉めることすら忘れ、あがり框に腰を下ろし、震える手で封を切った。濡れてくっついた三つ折の紙を延ばし、おののく瞳で文面を追った。

『前略
 先日はあなたの作品を当N―――展にお寄せ頂き、ありがとうございました。厳正なる審査の結果、残念ながらあなたの作品は……』

 活字で印刷された文字が、私の頭の中を飛び回った。

 ―――残念ながらあなたの作品は
 ―――残念ながらあなたの作品は
 ―――残念ながらあなたの作品は
 
 私は、自分の芸術家生命の終わりを意味する紙片を持った両手を、力なく膝の上に落とした。
 あれだけ全身全霊をこめ、全ての技術を駆使した、芸術家人生の集大成とも言うべき作品を否定されてしまったのだ。このときの私の落胆は、筆舌に尽くしがたかった。
 頭を抱え、うな垂れていると、膝の上ににゅーっと長い犬の鼻面が差し込まれた。すきゅん、すきゅんと鼻を鳴らし、小さな目で私の様子を窺っている。
 こんな犬にまで同情されているのか。そこまで落ちたか、私は……。
 私は、キッと身を起こし、犬を振り払った!
「触るな、汚らしい!」
 全てはこの犬が悪い、今の私の最悪の状態はこの犬のせいのような気がして来た。
 この犬のせいで私の生活のリズムが狂った。この犬のせいで、心を乱された。こんな犬を描き、N―――展に応募などと言う気を起こしたせいで、私の名前は永遠の恥辱の谷底に突き落とされてしまったのだ! 
 そもそも、この犬を画材に選んだ時点で、私の落選は決定していたのだ。こんな、不恰好な駄犬を!「不細工な犬の中にも”美”を追求する『画道精進』の心意気」? ハッ、無駄なことだったんだよ。不細工な犬はどこまでも不細工で美のかけらもない。私がどこまでも教える側の人間で、本当は才能などなかったように……。
 私は犬に、クシャクシャに丸めた落選通知を投げつけた!
「出て行け、馬鹿犬!」
 犬は、後ずさりしながら、戸惑ったような目で私を見上げた。その顔を見ると、悲しさと腹立たしさと惨めさが、ドッと胸に押し寄せてきて、
「出て行けと言っているのに! お前の顔なんて見たくないんだ! 犬なんか、飼いたくなかった! 私はやっぱり、断じて犬は飼うべきではなかったんだ!」
 そう叫びながら、私は罪もない犬に、手近な靴をメチャクチャに投げつけた! 犬は、そうされながらも私の傍を離れまいとしていたようだったが、顔に一足の靴が当たると、悲しげに一声「すきゅ〜ん……」と鳴いて、開け放たれた玄関口から逃げて行った……。
 雨は降り続いている。
 ときおり稲光が、あたりを白く染めた。
 どれだけあがり框に腰掛け、うな垂れていたことだろう、私は電話の音に気がついて、ノロノロと家の中に上った。
 居間でジャンジャン鳴り続いている電話の受話器を取り上げ、「はい」と力なく答えると、
『高橋太朗さんですか?』
「はあ……」
『良かった! 私、N―――展の事務局の者ですが』
 N―――展の関係者が、今さら、落選者の私に何の用なのだ? 
 落選した絵を、サッサと搬出に来い、ということか?
 ところが、N―――展事務局の者は、思いもかけないことを言った。
『手違いがありまして! もう届いてしまったでしょうか、落選の通知? あれは、あなたへのものではありません、失礼しました、申しわけありませんでした!』
「……はぁ?」
『アルバイトの者が、高橋太さんと高橋太さん……朗らかの朗と、良く使うほうの郎ですか? 間違えましてね。よく使う郎の人へ送るはずの通知を、入賞者のあなたの方へ送ってしまい……』
「入賞……者……?」
『ええ! ”眠る犬のいる風景”、あなたの作品ですね?』
「は・はい、確かに……」
『内閣総理大臣賞を受賞されていますよ!』
 内閣総理大臣賞!
 予想もしていなかったビッグタイトルだった……!
『縁側で中年の夫婦が、庭の紫陽花の傍で眠る犬を見ている。夫婦の背中越しに、鑑賞者も一緒に犬を見ているような気持ちを起こさせる、そんな構図が斬新で素晴らしい、テクニックも申し分なく、今後日本画を勉強する者の手本となるだろう、と、運営委員の西山先生も絶賛されていて……』
 私は、全部は聞いていなかった。受話器を放り出し、玄関に向かって駆け出していた!
「犬! 馬鹿犬!」
 私は、激しく横殴りに降る雨に向かって、叫んだ! 裸足で庭に飛び出し、犬の姿を探したが、影も形もなかった。
「おい! 犬! 犬! 馬鹿犬! ……タロウ!」
 私は初めて、犬の名前を呼んだ。
 馬鹿犬タロウ……いや、馬鹿は私だ。馬鹿なのは私、高橋太朗だ!
 見栄っ張りで、強情で、そのくせ臆病で、いつも他人への構えを解くことが出来ず、自分を守ることに汲々としている馬鹿な老人、それが私だ。挙句の果てには弱い者にやつあたりして、たった一つの愛も失ってしまうような大馬鹿者、それが私なのだ。
「タロウ、どこに行った、タロウ? 戻って来てくれ! 私が悪かった!」
 私は声を限りに叫んだ。泣き叫んでいた。
 豪雨の中、立ち尽くす私の前に、稲光が濃い影を作った……。

 私のN―――展内閣総理大臣賞受賞のニュースは、知らぬ間に学校中に広まっていた。生徒や講師達の私を見る目が違っていた。祝福の言葉もあちらこちらから貰った。西山は校内で私の姿を見かけると、コソコソと逃げ出したり目を逸らしたりしている。
 しかし、私の心は前よりも重く、せっかくの受賞も手放しで喜べなかった。あれから三日経つが、犬のタロウの行方はようとして知れない。息子の家に電話してみたが、今回はそっちにも逃げ戻っていない。
 タロウを描いた絵を百枚ほどカラーコピーして、街中の電信柱に貼ってもみた。
「この犬を見かけた方は、高橋方まで。電話○○○―△△△△」
 街角でよく見かけるこの手の貼り紙を、まさか自分がすることになるとは思いもよらなかった。
 タロウはどこへ行ってしまったのだろう。あの日は豪雨だったし、タロウは老犬だ。衰弱して、あるいは車にでもはねられて、もう生きてはいないかもしれない。
 やはり、断じて犬を飼うべきではなかった。こんなに悲しい思いをすることになるのなら……。
 そんなわけで、今日も重い足取りで家に着いた私は、
「すきゅ〜ん……」
という、聞き覚えのある、情けない声を耳にして、玄関前でハッと立ち止まった。
「タロウか?」
 私は、キョロキョロあたりを見回した! いない! 庭に回ってみる……いない? 
 空耳か、気のせいだったのか……?
 そのとき、ゴソゴソ、という音とともに、垂れ下がった紫陽花の重たげな花房の陰から、あの犬が這い出してきた! 泥だらけで、やせ細って、前にも増して不細工な、何と言う惨めな姿か! もしかしたら、ずっとここにいたのか、それともどこかを彷徨ってここに戻ってきたのか?
 いや、もう、そんなことはどうでも良かった!
 私は、受賞祝賀会帰りで一番上等のスーツを着ていることも忘れ、泥だらけの犬に泣き笑いしながら駆け寄り、抱きしめた!
「この、バカ犬! バカ犬! 何やってたんだ、アハハハハ、バーカ! お前も私も馬鹿だなあ、馬鹿同志だ、アハハハハ!」
 タロウは泥足で私の膝にのぼり、元気いっぱい、私の手と言わず顔といわず、舐めまくった! それを厭だとも汚いとも思わず、無常の幸福を感じている私がいた……!

「ほうらね、あなたは本当は独りじゃ寂しい人なんだから。どう? これでも、『断じて犬を飼うべきではなかった』?」
 別れた妻が、天国で勝ち誇って微笑んでいるような気がする……!

                     (了)

※この作品はフィクションであり、実在の団体等とは無関係です。
※また、知識に関しては必ずしも正確ではないことを追記させて頂きます。


感想ヨロシク!

『神様、もう一度だけ』
『晴れた日には犬を連れて』



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