『晴れた日には犬を連れて』
by.mura




「―――あのう、課長……」
「課長はよせ!」
「じゃあ、諸星さん……」
「(小声で)名前はもっとまずいだろ!」
「えっと……親方? とか?」
 灰色の帽子に、同じく灰色で胸に”ジョウシンサービス”とネームの入った作業着を着た男が二人、川沿いの道を歩いていた。小ずんぐりした年配の方は、作業道具を入れた箱を勢いよく振り、腹を突き出して堂々と歩いていたが、若くてスレンダーな、まだ幼さが残る顔をした男の方は、背中を丸め、落ち着かなげにあたりをキョロキョロ見回しながら、小股でチョコチョコ歩いていた。
「親方? な・何だか、人、多くありませんか?」
 若い男の言う通り、もうじき日も暮れようというのに、やけに人出がある。土曜日と言うのを差し引いても、かなり多い。駅からこちらへ向かって、皆、ゾロゾロ歩いてくる。家族連れやカップルが、やたら目に付く。
 諸星と呼ばれた年配の方は、チラッと周囲に視線を走らせ、
「浴衣姿が多いな。この辺で、祭りでもあるんじゃないか?」
「それって、ヤバくないっすか?」
「いや、むしろ好都合だ、大勢に紛れた方が」
 諸星はそう言うと、若い男に視線を移し、
「オマエな、背筋を伸ばして前見て歩け! 普通にしろ、普通に! そんなビクビクしてたら何ごとかと怪しまれるぞ! これから俺達は何しに行くんだ、ええ?」
「えっ、いやその、こ、顧客に頼まれてぇ〜……セキュリティーのトラブルを、解消しにぃ〜……」
「だな? だったらそのように振舞え!」
 二人は人ごみから離れ、すぐ近くの住宅街へ折れて行った。河原とは、道路を挟んで向かい側という位置関係にある、一軒の豪邸のインタフォンを、諸星が押した。
「沼田さ〜ん、ジョウシンサービスから参りました〜。ご依頼の、電動シャッターの修理の件ですが〜」
 門扉の前で、二人は張り付いたような笑顔で佇んでいる。近所の住人が後ろを通りかかったが、二人には何の注意も払わず、河原の方へ向かって歩いて行った。
「……あ、はいはい。そうですか、では、裏に回らせて頂きます〜」
 二人はインタフォンに向かってペコペコ頭を下げながら門扉を開き、中へ入って行った。諸星が裏へ回ると、間もなく戻って来て、若い方に合図をした。若い男は頷いて、腰を屈め、庭の方へ小走りに走って行き、シャッター式雨戸を押し上げた。
「ふふん、本当だ、電源を切ると電動シャッターは手で開きますね。内側からロックかかってないと」
「シッ! 問題は、窓の鍵だが……」
 諸星は窓にそっと手をかけたが、窓は簡単にスッと動いた!
「……やっぱり。シャッターを降ろしたことで油断して、鍵を忘れてる!」
 二人はニヤリと顔を見合すと、中へ入り、元通りシャッターを降ろした。そして、それぞれ、大型の懐中電灯を点け、部屋の中を照らした。
 若い男は満面に笑みを浮かべた!
「やりましたね、親方!」
「バカ、ここでは諸星でいい! 喜ぶのは早いぞ木島、これからが俺達の初仕事だ……盗みのな!」
 諸星は温厚そうな丸っこい顔に、せいいっぱいの凄みを利かせたつもりの、笑みを浮かべてみせた……。

 さて、この二人、諸星と木島は空き巣に入ったわけだが、「初仕事」と諸星が言うように、元から泥棒だったわけではない。どころか、ほんの数ヶ月前までは、手堅く勤め人をしていたのだ。ジョウシンサービス、ならぬ、中堅どころのあるハウスメーカーの、営業マンだった。
 諸星と木島は上司と部下の関係で、世代を超えてなぜか気が合った。趣味も同じだった。二人はともに、社内の部活”ラジコン倶楽部”に所属していたのだ。少年の心を持つラジコン好きの人間に、悪人はいない、というのが二人の持論だった。
 人事部長の沼田も、このラジコン倶楽部に所属していた。貧相で頼りない雰囲気だが、仕事は出来ると評判だった。諸星と木島も彼とは親しく交際させて貰っていた。他のラジコン仲間とともに、彼の自宅に招待されたこともあった。
 会社でもプライベートでも特に不満もなく、楽しく暮らしていた諸星と木島だった……が、数ヶ月前のある日こと。青天の霹靂とでも言おうか、二人は、自分たちがリストラの対象になっていることを知ったのだった……!
 確かに、リストラとなると、人事部が大きく関わってはいるが、人事部長の沼田の一存で決められるわけではない。何にせよ、会社の方針に従ったわけで、沼田一人に責めを負わせるのは酷というものだった。
 が、諸星も木島も、沼田を激しく憎んだ。
 あんなに親しくしていたのに。俺たちは仲間じゃなかったのか、裏切り者め。少年の心はどこへ行ったんだ? ラジコン好きに悪人はいないと思っていたのに、沼田のヤツ、よくも俺達にこんな酷い仕打ちを……!
「―――諸星さ〜ん、どうっすか〜、再就職決まったあ〜?」
「あ〜ダメダメ。俺なんか四十超えてるもんなァ」
 早期退職後のある日、二人は馴染みの飲み屋のカウンターで、クダを巻いていた。
「オマエはいいよ、まだ二十代だ、就職先くらい幾らでも見つかるさ」
「ダメっすよ、俺、高卒だし。諸星さんみたく良い大学出てたらな〜」
「無駄なんだよォ、今さら高学歴なんかよォ!」
 諸星は、コーン、とコップをカウンターに叩き付け、店の親父にジロリと睨まれ、肩をすぼめたが、
「いいよ、オマエは独身だし。俺なんか家にいると毎日女房に責められて……ったく、沼田のヤツが恨めしいよ! どうしようかなァ、このまま就職先が見つからなかったら……」
と、自棄のように冷酒を煽ると、
「泥棒にでもなるかぁ」
と、ボソッと呟いた。
 酔眼朦朧としていた木島が、その言葉に、ピクッと反応した。
「いいっすねぇ〜、それ! 最初の仕事は、沼田人事部長宅!」
「そうそう、有り金全部掻っ攫って、ヤツの自慢のラジコンヘリ全部叩き壊して逃げてやろうぜ!」
「そりゃいいや諸星さん、あ〜っはっはっはっは!」
「うぇ〜っへっへっへ、飲め飲め、木島! もっと飲め〜い……!」
 ―――普通このような場合、酔いが醒めたら「ああ、馬鹿なこと言ってたなァ」と呆れたり反省したりするものだが、彼らの場合は違った。酔っ払っているとき冗談半分だったあの計画を、素面に戻ってから、より真剣に検討するようになって行ったのである。
 打ち続く不況、一向に決まらない再就職先。二人とも、現実から逃げ出したかったのかもしれない。毎日、盗みの手口を勉強し(あくまでも机上で、だが)セキュリティー破りの新しい方法に知恵を絞り、これまでのハウスメーカーで得た知識で間取り別の対策を立て、エクステリアの様子から家人の性格まで分析したりした。
「そんな時間があったら、もっと再就職のために一所懸命になれよ!」
というツッコミ役がいなかったので、諸星と木島は、二人きりで突っ走るだけ突っ走った。そして、机上でのシュミレーションは完璧とみるや、彼らはその論理を、現実で試さずにはいられなかった。
 それも、憎き沼田人事部長宅で……!
 折りも折、沼田部長の妻が、マダム雑誌の懸賞で、”家族で行く北海道二泊三日の旅”に当選した……という情報が入ってきた。しかも、詳しい日程までキャッチした!
 二人は、ジョウシンサービスという、もっともらしい架空の工務店をでっち上げて、制服まで作り、周辺の住人に怪しまれないため、自然に見えるよう、演技の練習までした。
「いや、だ〜か〜ら〜、そんな手間かける時間とお金と頭があるんだったらね、もっとマトモな方向に……」
というツッコミをする人間は、今回もいなかったので、とうとう二人は今、沼田家に侵入してしまった……という次第なのである。

 沼田家に侵入した二人、諸星と木島は、何か違和感を感じた。
「前、ここに招ばれたときと、感じ違うな。暗いからか?」
「いや、俺もそう思う。それに、なんか、埃っぽくありませんか?」
 木島は口元を抑えた。
「それに、臭……」
 そう言ったとたん、
「ハークション! ハー、ハー、ハークション!」
と、木島は大音響でくしゃみを連発し始めた! 焦ったのは諸星で、
「しっ! 静かにしろっ!」
「だって、ハークション! 俺、弱いンすよ、ハウスダスト……ハックション! ビェークション!」
 諸星はオロオロと周囲を懐中電灯で照らしたが、
「げっ! 何と言う不潔さだ?」
 あたり一面、埃だらけなのを見て、思いっきり顔をしかめた! 一日や二日掃除をサボったなんてものではない、かなりの乱雑さ、汚さ! 三年程前、諸星たちが招待されたときは、こんな風ではなかった。整理整頓が行き届き、隅々まで掃除され、ゆかしき花の香りすらした(多分室内芳香剤の匂いだろうが)。あの日一日だけ取り繕い、これが本来の姿なのだろう。あの細君め、綺麗に化粧して洒落た服着て、実際は何ていうズボラぶりなんだ! 諸星は呆れた。
「掃除しよう、掃除! これじゃあ仕事にならん! 確かここはセントラルクリーナーがあっただろう?」
「ダメっすよ、諸星さん。外から、電源切ってきたじゃないっすか」
「ああ、そうか」
 諸星は後退したおデコをピシャリと叩き、
「じゃあ、モップかほうき。あと、チリトリあるか、チリトリ?」
 二人は、埃避けにタオルで顔の下半分を覆い、リビングルームの掃除を始めた。モップがけをしながら、木島は懐中電灯でキッチンの方を照らして、
「うわっ、シンク、汚れ物でいっぱいじゃないっすか! 俺、ああいうの大嫌いなんすよね、洗っていいっすか? 電気ダメでも水道は大丈夫なわけだから」
「ああ、いいけど、指紋はつけないようにな」
と、諸星はテーブルを動かし、その下のゴミを掃き出しながら応じた。
「キッチン用グローブ見つけました! これ使って洗って、洗い終わったらアシがつかないよう、持って帰ります」
「おう、それがいい!」
 二人は黙々と片付けを続けたが、
「……俺たち、何で、盗みに入った家でこんなことしてるんスかね?」
「いや、それはその、美学、うん、俺たちの盗みの美学なんだよ」
「そうッスよね、美学ッスよね!」
 無理矢理納得して、リビングを片付け続け、一時間経過。二人は散乱していた雑誌や新聞をキチンと重ねて紐でくくり、片隅に寄せると、リビング全体の雑巾がけまでした。
 諸星は、拳でトントンと腰を叩きながら身を起こすと、
「さてと、片付けは終わった、と。確か現金や貴重品がこういう部屋に置かれる可能性は低いんだったな?」
「そうッス。俺たちの研究の結果によると、狙い目はまず和室、夫婦の寝室、それから……」
 木島はそう言いかけて、
「……何か、物音、しません?」
 言われてみれば、家の中のどこかで、ゴソゴソ、ガサガサという音がしている。諸星は青ざめて、
「本当だ! まさか、怪しいヤツが侵入してきたとか!」
 それはオマエらだ、というツッコミをする者は、この場にはいなかった。二人は懐中電灯片手に、恐る恐るリビングを出、音源を捜した。
 音源は、アッサリ見つかった。
 沼田家の広い玄関ホール。ドアの内側の、大理石風タイル部分に、ベビーサークルのようなケージがあり、物音は、その中から聞こえていたのだった。
 そっと、懐中電灯の光で、音のする方を照らしてみる。諸星の後ろにビクビク隠れていた木島は、光に照らされたものを見た瞬間、いきなり諸星を押しのけ、絶叫した!
「うわあぁぁぁあ〜、かぁ〜わいいぃぃ〜ん!」
「馬鹿ッ! 何ていう声を出……」
 叱りかけて、諸星もそれを見て、
「……こ・こりゃあ可愛いな、確かに」
と、膝でそっちへにじり寄った。
 上がオープンになったケージの中にいたのは、二匹のチワワだった。あのCMと同じ、ロングコートチワワだが、こちらはココア色の毛皮だった。が、負けず劣らず可愛い! 一匹は毛布のようなものの上に大人しく寝て、ぬれぬれとした真っ黒な瞳でこちらを見上げ、もう一匹は千切れんばかりに尻尾をふり、「くぅ〜、くぅ〜」と鳴いている。
「か・可愛いなあ、”くぅ〜ちゃん”!」
「俺たちがこの家に招ばれた頃にはいなかったよな。多分あのCMの影響で、飼い出したんだろうな」
 木島は上から手を差し入れ、愛嬌を振りまいている方を抱き上げた。彼に勝手に”くぅ〜ちゃん”と命名された犬は、嬉しくてたまらないといったように、尻尾を振り続け、木島の顔を舐めまくっている。諸星も横からちょっかいをかけて、
「ずるいぞ〜木島、俺にも抱かせろよ、ハハハハハ」
「ダメっすよぉ〜、もうちょっとだけ〜、ウフフフフ……って、あの、沼田の鬼野郎!」
 木島は突如怒り出した!
「沼田の一家ときたら、二泊三日の間、くぅ〜ちゃんたちをここに置きっぱなしっすよ!」
「え? まさかそんな……考えたくない。こんなに可愛いのに。近所の人が鍵を預かって、世話しに来てるのかも……」
と、諸星は弱々しくフォローしたが、木島は憤然と懐中電灯で照らして見せた。
「ちゃんと世話されてる犬の、ケージの中が、こんなになりますか?」
 ケージの中は糞尿と、大量の餌の食べ汚しやこぼれた水で、悲惨なことになっていた。恐らくは、三日分の餌と水をドーンとケージに置いて出かけたのだろう……。
「確かに。それに、あの、ズボラなくせに見栄っ張りな奥さんが、家の中のあの様子を近所の人に見られたがるとも思えんしな……木島、掃除しよう、掃除!」
「ハイ! モチロンっすよ!」
 そして、またまた二人して掃除である。今度は二人とも「俺たちなんで盗みに来てこんなことを……」とは言わず、二匹のチワワのために一心に尽くした。糞や食べこぼしを片付け、汚れたペットシートを捨てた。
「新しいペットシート、見つけました! その毛布も汚くなってると思うんで、この、大きいバスタオルと交換しましょうよ」
と、木島が、ウキウキしている。片手にペットシートとバスタオルを持ち、もう片方の小脇には”くぅ〜ちゃん”を抱えていた。
 諸星は、懐中電灯でそっともう一匹の方を照らしながら、
「それはいいんだが、こっちの子はやけに大人しいなあ……おい、お布団を交換するよ、ちょっとどいてね……」
と、そっともう一匹を持ち上げようとしたが、
「ひぃっ?」
 諸星は悲鳴をあげ、チワワを手から振り落とし尻もちをついた! 木島は驚いて、
「ちょっと! 諸星さん、何て声出すんです? それに、チワワをそんな乱暴に……」
「あ、脚が出てる!」
「脚くらいありますよ、チワワにだって!」
「ち・違う!」
 諸星はケージを指差して、必死の形相で、
「う・産まれかけてるんだ! その子はお母さんなんだよ! 仔犬の脚が、もう、出かかってるんだ……!」

「―――チクショウ、何て奴等だ、沼田一家! まだ間があると思ったのかもしれないが、こんな、お産間近の犬を閉じ込めて、旅行に行っちまうなんて……!」
 だいぶ落ち着きを取り戻した諸星は、そう吐き捨てた!
「ひぃぃぃぃ、どうしましょう、どうしましょう、諸星さん? 俺、こんな生々しいの、苦手っすよう〜!」
 若い木島は半泣きで、くぅ〜ちゃんを抱きしめている。くぅ〜ちゃんは、クンクン鼻を鳴らして、不安そうだ。
 諸星とて同じ気持ちだった。ママチワワの腹の下の方からプラ〜ンと下がった小さな細い濡れた脚……いやあぁぁぁぁ、と、女のように悲鳴をあげて逃げ出したくなるような光景だ。しかし……、
「いつからこうなんだろうか?」
「え?」
「いや、お産はいつから始まってたんだろうな? この状態が続くと、マズイだろう。窒息して死んでしまうぞ、この赤ん坊」
「そ・そんなァ〜」
 木島は本当に泣きそうになっていた。
「チワワは小型で骨盤も狭く、見るからに弱々しいし、腹筋も足りんのかもしれんな……よし、出そう」
「だ・出そうって、諸星さん……!」
「赤ん坊を取り上げよう」
「げぇっ?」
 指紋がつくことを警戒してつけていた軍手を脱ぎ、諸星は素手でママチワワを柔らかく掴んだ。そして、赤ん坊チワワの脚を持って、引っ張り始めた。
「そっとして下さいよ諸星さん、そっと、そっと!」
「わかってる!」
 早く出さなくてはならない、でも、母体や赤ん坊を傷つけてはならない! 諸星の額には、汗が滲んできた!
「が・頑張れ、諸星さん! 頑張れ、お母さん!」
 何も出来ない木島は、傍で、必死で、応援するだけだった。
 諸星は、右手の指先に全神経を集め、仔犬を牽引していた……やがて、彼の手に導かれるようにして、自然に、仔犬の身体は母体から抜け出してきた……!
「やった! 出た!」
 マッチ箱より小さい、仔犬の全身が、スルッと現れた!
 木島は、喜びの声をあげた!
 ママチワワはケロッとした顔をしている。
 ……が、
「鳴かない」
 諸星は、ポツッと呟いた。
「えっ?」
「やっぱりダメだったか? 酸欠状態が長すぎたのか……?」
 小さな小さな、濡れた仔犬は、ウンともスンともいわない。諸星の手の僅かな動きに合わせ、力のない首がグラグラ揺れている。どう見ても死んでいるようにしか見えない……。
 諸星はキッとして、
「木島、ガーゼか、小さめのタオルないか?」
「え? ガーゼ、さっき見かけましたよ?」
「くれ! この子を擦ってみる!」
 木島は飛んでいって、ガーゼを取って返した! 受け取った諸星は、それで必死になって仔犬の小さな身体を擦った!
「生きろ〜、生き返れ〜!」
 仔犬の身体は、グラグラ揺れている。木島は諦めたように、
「ダメっすよ、諸星さん……どう見ても死んでますもん、その子……」
「そんなにサッサと、諦めるなよ!」
 諸星は怒鳴った!
「せっかく生まれて来たんだぞ! 今、始まったばかりなんだぞ! 何で諦められる? 諦められるわけ、ないじゃないか……!」
 必死の表情だった! 
 若者は先輩のその迫力に圧倒され、息を呑んだ……。
 木島は、ふと思いついた様子で、仔犬をマッサージし続けている諸星の腕を押さえ、
「ちょっと俺にやらせてみて下さい」
と、彼の手から仔犬を取り上げた。
 どうするのかと諸星が見ている前で、木島は、仔犬を軽く握った手を、思いっきりブン! と、振った!
「き・木島、おい、何を……!」
「羊水を吐き出させてるんですよ」
 木島はもう一度腕を振って、
「前に聞いたことがあったんです。俺の祖父ちゃん、生まれたとき、泣かなかったんですって。そんとき、産婆さんが、祖父ちゃんの両脚を持って、逆さにして振って、羊水吐き出させたって。そしたら……」
 ―――ミィ〜……
「……ないた、って」
 ―――ミィ〜
「鳴いた……!」
 木島と諸星は顔を見合わせた後、木島の手の中の小さな命を覗きこんだ! 仔犬は、ミィ、ミィ、と小さく、しかしハッキリと鳴いていた……!
「やったな、木島!」
「俺たち、やったっすよ、諸星さん!」
 ケージの中のくぅ〜ちゃんとママ夫妻に仔犬を返た後、二人は抱き合い、肩を叩き合って喜んだ……が、その喜びもつかの間。
 諸星は、玄関のすりガラス部分から見える外の様子に、ギョッとした!
「おい! 家の周りに、人がいるぞ……!」

「―――えっ? 人がいるって、そんな、まさか……」
 木島もハッとした。仔犬を蘇生させるのに夢中で気づくのが遅れたが、言われてみれば一人や二人ではない、何人もの人の気配が、ザワザワと家の周りを取り囲んでいるように思えた。木島は大慌てだった!
「騒ぎすぎたっすよ、俺たち! 近所の人たちが気づいて、通報されちまったんすよ!」
「逃げるんだ! さっき侵入した、リビングの、庭へ続く窓はどうだ?」
と、諸星も飛び上がったが、素早くリビングの窓に耳を付け、外の様子を窺った木島は、
「ダメッす! こっちも、人がいっぱいっす!」
と、青くなって首を横に振った……!
 二人は絶望的な表情を浮かべた。部屋の掃除をし、犬のお産の手伝いをしただけで、まだ何一つ盗っていないというのに、捕まるのか、俺たちは……何て言う間抜けな泥棒なんだ……?

 ―――それが”追われる”者の心理なのか、二人はどちらが言い出すともなく、上へと逃げ出した。二階へ上って、諸星はキョロキョロあたりを見回し、
「おい、確かこの家、屋上があったよな?」
「ええ、沼田が自慢タラタラ、案内してくれましたっけ!」
「そこから、下の様子を見てみよう! 突破口が見つかるかもしれん」
 二人は夫婦の寝室からベランダに出て、外付けの螺旋階段を一気に駆け上がった! そして、息を整え、恐る恐る下の様子を見ようと……した、そのとき!

 ―――ヒュ〜……ゥゥゥウウウ〜……
 ―――ドーン、パパーン!

 突然、空がパァッと明るくなった。
 諸星と木島は、ハッと上を見上げた!
 夜空いっぱいに開いた光の花……そう、たった今、すぐそこの河原で、花火大会が始まったのだった……!

「……うわぁ」
「すげぇ……」
 頭上で炸裂した花火の、あまりの大きさ、美しさに、そう言ったきり、二人は声もなかった。
 下ではドッと歓声が上っている。
 やましいところのある諸星と木島が、”通報で駆けつけた警官たち”と思い込んだ外のざわめきは、花火見物客達だったのだ。河原で打ち上げられる花火を見物に来た人々が、そこに収まり切れず、
「こっちの方が良く見えそうだぞ〜」
とばかり、沼田家のある住宅街の方に陣取ったのだ。図々しい者たちは沼田家のブロック塀に並んで腰掛け、ビール片手に声高にしゃべったり、もっと酷いのになると、沼田家の門扉前のステップにピクニックシートを敷いて座り込んで、弁当を食べたりしている。
 だが、この屋上は、まさに特等席だった! 二人は無言で、屋上にゴロリと仰向けに寝転がった。家にも人にも木々にも電線にも視界を邪魔されず、見えるのはただ、小気味良い音とともに次々と上り、パァッと広がる、色とりどりの花火だけ……!
 夜空に咲く花に目を向けたまま、諸星は、話し掛けた。
「なあ、木島よ」
「はい、諸星さん」
「……やっぱ、やめよっか、泥棒」
 木島は、クスッと苦笑した。
「はい。俺も今、同じこと言おうと思ってたっす」
 仔犬を蘇生させた時から、実は、そう思っていたのだ。
 あのとき諸星は言った、
 ―――今、始まったばかりなんだぞ! 
 ―――何で諦められる? 諦められるわけ、ないじゃないか……!
 俺たちもそうだ、と木島は思った。
 俺も諸星さんも、始まったばかりなんだ。諦められない、人生を投げちゃいけない……!
 木島は目を輝かせ、
「ねえ、諸星さん! 再就職先が見つからなかったら、二人の早期退職金を併せて元手にして、商売始めません?」
「おっ、いいね〜、それ! 防犯グッズ販売でもやるか?」
 冗談めかした諸星に、木島は真剣な顔で、
「俺、ハウスクリーニングがいいな。今日わかったんだけど、結構好きみたいなんすよ、汚れたとこ綺麗にするの。諸星さんもそうでしょう?」
「何にせよ、会社名は”ジョウシンサービス”だな。この制服、無駄にせずにすむぞ」
 諸星は明るく笑って、
「にしても、沼田部長も間が悪いな」
「え?」
「北海道旅行なんていつ行ったっていいのに、今日この家を留守にしたばっかりに、こんな綺麗な花火にも、あんな素晴らしい誕生の瞬間にも、立ち会えなかったんだぞ」
 木島も気分良さそうに笑い返して、
「ホントっすねぇ! てことは俺たち、結局、沼田部長から、価値のあるものを盗んだ、ってことになるのかなあ? そう考えると、リストラのことも許せそうな気がしますよねえ!」
 ―――商売をはじめて、それが軌道に乗ったら、犬を飼おう。
 晴れた日には犬を連れて、そこの河原で、大好きなラジコンヘリを飛ばすんだ。チワワに免じて、沼田部長も誘ってやってもいい。
 そんな未来予想図を楽しく思い描きながら、諸星と木島は、夜空を彩る無数の光を見つめ続けていた……。

                     (了)

※この作品はフィクションであり、実在の団体等とは無関係です。
※また、知識に関しては必ずしも正確ではないことを追記させて頂きます。


 


感想ヨロシク!

『眠る犬のいる風景』
『神様、もう一度だけ』



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