ロクでもない人生だった。屑のような男だった。 ヤクザ絡みの金融機関から多額の借金。おまけにそこの親分の女に手を出して、部下に追いかけられ、道路に飛び出したところをトラックにはねられ……。 雅彦は、中央分離帯の上に仰向けに倒れ、ポカンとした瞳で真っ青な空を見上げていた。遠くで救急車のサイレンの音がするが、自分がもう助からないことは、何となくわかっていた。 意識が薄れて行く、ああ俺は今死ぬんだな。 その刹那、雅彦は、青い空の白い雲の中に、そばかすのある丸顔の、女の笑い顔を見たような気がした。 ……菜々子? そうだ、菜々子だ、たった一人俺に優しくしてくれた女。 お前にだけは礼と詫びが言いたかったよ。 死ぬ前にもう一度だけ逢いたかったよ、菜々子……! 「―――だめ! 逝っちゃだめ、死んじゃいやだぁぁぁぁ!」 雅彦は自分の目の前に菜々子の泣き顔があるのを見て、驚いて起き上がった! 『菜々子?』 彼がむくりと起き上がると、号泣していた菜々子はストップモーションをかけたように止まり、そばかすだらけのまん丸な顔の中の、目だけがみるみる大きく見開かれて行った。 「生き……返った……?」 菜々子は、おそるおそる、彼に手を伸ばした。 「本当に、生き返ったのッ?」 不思議そうに見上げる彼を、菜々子はいきなり、猛烈に抱きしめ、 「生きてるのね! もう、大丈夫なのね! 良かったー!」 と、今度は嬉し泣きに大泣きし出した! 雅彦には、何が何だかわからない。 ここは病院なんだろうか? いや、違う。天井にはシャンデリアがぶら下がっているし、無教養な雅彦の目から見ても、調度品は大変上等で贅沢なものに見える。明らかに、どこか金持ちのお屋敷だ。道路の真ん中で虫の息で倒れていた自分が、どうしてこんな家の中にいるのか、さっぱりわからない。 それに、それに……と、雅彦は菜々子の顔をそっと盗み見た。 ……菜々子って、こんなに、顔デカかったっけか? そのとき、菜々子は部屋に入ってきた人物に向かって、 「義昭さん、見て! マメクロが生き返ったわ!」 と、叫んだ! ……マメクロ? マメクロって何だ? ますますわけがわからない雅彦の前で、その、義昭と呼ばれた男は、サッと顔色を変えた。インテリ臭い風貌の、神経質そうな縁なし眼鏡の男である。 「そ・そんな馬鹿な……」 男は消え入るように呟き、雅彦の傍らにしゃがみ込むと、顎をグッと掴んで顔を左右にねじ向けたり、無理矢理瞼をめくって見たりした! 『何しやがる、このガキャ―!』 雅彦が凄もうとしたとき、今度は、 「いつまで泣いてるんです、菜々子さん! サッサとその犬の死体を始末して……」 と、刺刺しい声を上げながら、着物姿の女が入室してきた。色白、権高な容貌の、いかにも”上流夫人”らしい老女だった。彼女も、雅彦を見て、顔色を変えた! 「犬、生きてるじゃないですか!」 「ええ、生き返ったんです!」 と、嬉しそうに声を弾ませる菜々子の前で、老夫人と義昭は、 「そんな馬鹿な……!」 と、呆然と顔を見合わせていた。 菜々子は二人の妙な雰囲気に気づかず、雅彦をまた抱きしめた。 が、雅彦は、今の老夫人の言葉にショックを受けていた! ハァ? 犬? 誰が犬? 俺が犬〜? 雅彦は菜々子の腕から逃れ、慌てて、自分の身体をキョロキョロと見回した。 黒く短い毛がツヤツヤと身体を覆っている。そして、生意気そうに、クルリと形良く巻いているのが……、 『尻尾だ! 俺に、この俺に尻尾があるぅ〜?』 雅彦は、すぐ傍のサイドボードにはめられたガラスに、自分の姿が映っていることに気がついた。凛々しい耳がピンと立ち、目の上にポンポンと丸い茶色い眉毛(?)のある、立派な黒毛の柴犬の姿であった……! 『なんじゃこらぁ〜!』 雅彦は部屋中を走り回った! 『俺、犬に乗り移っちまった! しかも、よりによって菜々子の飼い犬に……!』 菜々子は手を叩きながら、 「マメクロったら、もう、あんなに元気になって!」 と、はしゃいでいる。 『マメクロゆうなぁぁぁあ〜!』 雅彦は絶叫したが、その声も、人の耳には、犬の鳴き声にしか聞えない。 義昭は薄気味悪そうにそんな犬を眺めていたが、老夫人に合図されて、部屋を出て行った。菜々子は一瞬鼻白んだ顔をしたが、すぐ笑顔になり、柴犬を抱き上げて、 「気にしちゃダメよ。義昭さんは感情を現すのがヘタなだけなの。でも、本当はとっても優しい人なの。マメクロにも話したよね? 私が借金で苦しんでいたとき、毛利先生……義昭さんが、私の知らない間に残金を清算してくれてたこと」 ……借金? 雅彦はギクッとした。 「私が気がついて、『何年かかってもお返しします!』って言ったら、家事労働で返してくれたらいいよ、って……私、前から義昭さんに憧れてはいたけれど、まさかこんな私に優秀な内科医の彼がプロポーズしてくれるなんて。今でもまだ私、夢みてるみたいよ、マメクロ……」 そうか、それで、あの男と結婚したのか……。 雅彦は三年前の、菜々子との出会いの日まで、思い出を遡った。 ―――三年前。 チンピラ同士のケンカで腹を刺され、病院に担ぎ込まれた雅彦。 「痛ェよう、痛ェよう!」 と、情けなく泣き叫ぶ雅彦を、叱り、励ましてくれたのは、搬入先の病院の看護士・菜々子だった。 「しっかりして! 何よ、男の子でしょう? 私がついてるわ! すぐ治るわよ!」 その言葉どおり、手術室に運び込まれる時から、手術後まで、菜々子はずっとついていてくれた。 入院の事情が事情の上、甘ったれで粗暴で、どうしようもない雅彦に、同僚の看護士たちは白い目を向け、 「構うのやめなさいよ、菜々子!」 「ロクな人間じゃないわよ、あれ!」 と、口々に菜々子に忠告したが、彼女は決して雅彦を見捨てはしなかった。彼女にだけは、雅彦の寂しさや、根の優しさがわかっていたからである。 退院後、雅彦は、菜々子の部屋に転がり込んだ。優しい菜々子と一緒に過ごしたその日々が、雅彦の人生の中で、唯一本当の幸福を感じることが出来た時期だった。 が、それにもすぐ慣れ、やがて雅彦の中の悪い虫が騒ぎ出した。競馬・競輪・パチンコ・麻雀・バカラ賭博。菜々子の給料を使い果たし、貯金を吐き出させ、多額の借金の保証人にまでさせて……逃げた。借金を押し付けて、逃げたのである……。 「―――どうしたの? まだ、具合悪いの、マメクロ?」 菜々子は、柴犬の顔を覗き込み、鼻を突付いた。雅彦は慌てて、菜々子の腕から床に飛び降りた。 『ホントにバカだよなあ〜、おまえって。どうしようもないお人好しだよ。どうせこの犬だって、拾ったとか、押し付けられたとかなんだろ?』 その通りだった。知り合いが、引っ越すに当たってマメクロを”処分”して行くつもりだ……と言っているのを聞いて、自分から飼いたいと申し出たのである。 『そんなだから俺みてぇな悪い男に騙されたんだよ、おめぇはよ!』 雅彦は、プイッと、菜々子のいる部屋から逃げ出した……。 廊下に出ると、和室の方から、義昭と老夫人が声をひそめ、話をしているのが聞えてきた。雅彦……マメクロは、本能的に、障子に影が映らないよう身を伏せ、話し声に耳をピンと立てた。 「話が違うじゃないの、義昭! あんな薬、犬コロ一匹殺せやしない!」 「そんなはずはないんです! 苦痛もない、何の痕跡も残さない、アメリカの新薬で……」 「アメリカさんを何でも有り難がるのは、日本人の悪いクセですよ!」 「わかりましたよ、母さん。次こそは……」 な・なんだとぉ〜? 雅彦は、目を剥いた! オマエらが犬コロに一服盛って殺したわけか? 何のために? そんなに犬が嫌いなのか、ええ? そのとき、 「マメクロ〜! マメクロ、どこ行ったの〜?」 と、菜々子が和室の方へ来る気配に、義昭はギョッとしたようにますます声を潜めた。 「自然死のセンは無理かもしれませんね」 「そうね。他の手を考えなければ」 雅彦はゾーッとした。 まだ諦めてねぇのか、犬殺し? やれやれ、せっかく犬とは言え菜々子の傍で生き返ったのに、とんでもね〜な、と、雅彦はため息をついた……。 「義昭さんったら、少しくらい待っててくれたらいいのに……!」 翌日の午後。菜々子は玄関でバタバタと身支度をしながら、靴をつっかけた。その足元に、柴犬のマメクロこと、雅彦が駆け寄った。 「あら、マメクロも行く? 義昭さんの往診なのよ?」 『ああ。いったい何の因果で俺がこうなったか知るまでは、オマエにくっついとくぜ!』 菜々子はマメクロにリードをつけ、足早に外に出た。雅彦は後ろを振り返った。 【毛利内科・小児科】 診療所も、それと同じ敷地内に建つ自宅も、時代がかった素晴らしい建造物だ。 義昭さんはね、私の勤めていた病院の勤務医だったんだけど、お父様が亡くなって、診療所を継いだのよ……ゆうべ雅彦(マメクロ)は、菜々子に、そんな風に聞かされていた。 俺とは大違いのエリート様かよ! ちょっとイジけたそのとき、雅彦は、フッと何か厭な感覚をおぼえ、鋭く右上を見上げた。 毛利邸近くの高層マンションの、外階段(非常階段)踊り場の手摺りに置いてあった植木鉢が、何かに小突かれたように落ちたのだ! 『菜々子、危ない!』 「キャッ? マメクロ?」 柴犬はいきなり、菜々子に飛びついた! 菜々子は尻餅をつき、その次の瞬間、たった今まで彼女がいた場所に、ドカッという重たい音とともに植木鉢が叩き付けられたのだった……! 雅彦は、キッとマンションの上の方を見上げた。手摺りのところから、ヒョイと引っ込む白い顔が、一瞬、見えた。あの顔は……! 『毛利のババアじゃねえか! 今度は植木鉢を落としてきやがった! 何でそこまで……俺を殺していったいオマエらに何の得があるっていうんだ!』 そこへ、 「菜々子、大丈夫か?」 凄い勢いで、義昭が飛んで来た! 顔色は真っ青である! 植木鉢の傍にへたりこんでいる菜々子を見た義昭は、何故か、複雑な表情を浮かべた。大変ホッとし……同時に残念でもあるような……そして哀しそうな……一言では言い表せないような、実に不思議な表情……。 菜々子は立ち上がり、 「義昭さん! どうして?」 「な・何だか、キミの……悲鳴が聞えたような気がして……」 義昭が慌てた様子でつっかえながら言うと、菜々子は、 「私を心配して、そんなに急いで引き返してくれたの? 嬉しいわ、義昭さん!」 と、パァッと笑顔を浮かべた。人間だった頃の雅彦の、ひねくれた心を癒し、満たしてくれた、あの笑顔を……。 義昭は、その輝きの前に、眩しげに目を伏せた。 じっと見比べていた雅彦は、唐突に、真実を悟った。 『さては……毛利親子の本当の目的は……!』 屋敷に戻ってから雅彦は、犬のように(!)鼻を鳴らし、あちこちを嗅ぎ回っていた。そのうち、義昭が、小さな洋間に入って行くのを見かけ、マメクロ雅彦は気づかれぬよう彼の後ろにくっついて、スルリと一緒に入ってしまった。 ソファの陰からそっと義昭の様子を見守っていると、彼は、壁に掛けた絵画の額縁をずらし、その裏に隠された隠し金庫から、書類を取り出した。そして、ソファに腰掛けると、その書類を前にして、ハァ―――ッ、と、深いため息をついた。 マメクロ雅彦は、ソファの陰から這い出して来て、テーブルに前脚をかけ、書類を覗き込んだ。 ……やっぱり! 柴犬は目を光らせた。 人生裏街道十年、犬になったくらいでは彼の勘は狂わなかったようだ。菜々子には多額の生命保険がかけてあり、これはその証書だったのだ。 雅彦には筋書きが読めた。身寄りのない菜々子を殺し、保険金を取るための結婚だったのだ。犬殺しは、アメリカの新薬とやらの効き目を試すための実験だったのだ……! 「わ〜っ? いつの間にっ? どこから入ったっ?」 うな垂れていた義昭は、マメクロが鼻をフンフン言わせながら書類を嗅いでいるのに気づき、書類を懐に隠しながら飛び上がった! マメクロはパッと後ろに飛び退り、耳を後ろに倒して、義昭に向かってウーッと歯を剥いた! わかったぜ、神様! 俺がこうやって、犬になって甦った意味が! 菜々子をこの外道親子から守ってやれってことですね? それが俺の罪滅ぼし、そうなんですね、神様……? そこへ、 「何を独りで騒いでるんです、義昭さん!」 と、老夫人がパタパタとスリッパの音を立てながらやってきた。彼女がドアを開け、入ってくるのと入れ違いに、マメクロ雅彦は逃げ出して行った。 義昭は、動揺した様子で、 「い・犬が、犬が、突然現れて……」 「そう、犬よ! もうっ! 忌々しい、あの犬が菜々子にじゃれついたりしなかったら、植木鉢は確実にあの娘の頭を叩き潰していたはずなのに……!」 老夫人は鬼のような形相で、キリキリッと歯軋りして悔しがった。義昭はその様子を見守っていたが、ふいに肩を落すと気弱そうに、 「もう、やめませんか、母さん? 何も知らず、僕を信じ切っている菜々子を見ていると、僕は……」 「何を言うの! 何のためにあの借金ナースをドブから掬い上げてやったと思ってるの!」 老夫人は息子に縋りつき、 「私は厭ですよぅ〜! 父が建てたこの家、夫が跡をついで守ってきたあの診療所……手放すくらいなら、いっそ死んだ方がまし! その手で一思いに殺してちょうだい……!」 そう叫ぶと、老夫人はカーペットに突っ伏し、号泣した。義昭は痛ましそうに見下ろし、 「わかった、わかったから、母さん……」 ―――菜々子の命は狙われ続けた。 あるときは菜々子が三階ベランダで身を乗り出し、布団を布団叩きで夢中になって叩いているとき、老夫人が両手を揃え、後ろから突き落とそうと忍び寄ってきた。 ―――がぶっ! どこからともなく風のように現れたマメクロが、老夫人のくるぶしに噛み付き、夫人がギャア〜! と絶叫、菜々子を驚かせた。 またあるときは、菜々子は夫とビデオ鑑賞中、ウトウトと居眠りを始めた……お茶に睡眠薬が入っていたのだ。彼女が眠るのを見届け、義昭と老夫人は頷きあって彼女を風呂場へ連れて行って、服を脱がせた。入浴中に風呂場で眠ってしまい、溺死……という事故は、実は非常に多い。 二人がかりで菜々子を湯船につけようとして、中を見てビックリ、センが抜かれお湯が落とされてしまっている。 実はコレもマメクロ雅彦の仕業だったのだ。二人の目論見を見破った彼は、チェーンを口で引っ張り、センを抜いて、湯船を空にしてしまったのだ。慌ててもう一度お湯を張ろうとしたが、センそのものがチェーンから取り外され、どこに行ったか見当たらず(マメクロが千切って、どこかへ隠してしまった)これも失敗。 その後も雅彦のたゆまぬ監視と先回りで、二人の殺人計画は悉く不発に終わった……。 老夫人は日を追うごとに、苛立ちを募らせて行った。些細なことでヒステリーを起こし、菜々子に当たった。こんな嫁、欲しくはなかった。殺して金を取るためだけに我慢して貰った嫁。でなきゃ誰がこんなレベルの低いイモ娘を……! 老夫人は無心に掃除機をかける、罪もない菜々子の後ろ姿を睨み付けた。そして、いきなり甲高い声で、 「菜々子さん! 坂ノ下町まで行って、刺繍の糸を買って来てちょうだい! 糸の番号はこれに書いておいたから!」 「あ、はい、お義母様!」 菜々子は慌てて、掃除機を止めた。老夫人は紙片を振り回し、 「大至急! 今欲しいの、今すぐ!」 「はいっ!」 このところの老夫人の機嫌の悪さを良く知る菜々子は、テキパキと身支度をし、マメクロを伴って家を飛び出した。 老夫人は、部屋のカーテン越しに、駐車場へ向かう菜々子の後ろ姿を冷ややかな瞳で見つめている……。 大至急と言われた菜々子は、当然、車を出した。マメクロは後ろの座席に大人しく座っている。 「何だか不思議」 菜々子はクスッと笑った。 「以前、同棲していた雅彦もね、そうやって、後部座席にダラッと座るのが好きだったわ」 そう言われ、マメクロ雅彦は慌ててシャンと座りなおした。 「あの人も優しい、いい人だったなあ。いつも面白いことを言って、私を笑わせてくれてね。でも、彼って、運が悪いの。やることがどうも裏目裏目に出ちゃって、失敗することが多くてね……」 菜々子が優しい言葉で雅彦のことを語る。 「どうしてるかなあ、雅彦……元気でやってるといいなあ!」 ハンドルを回しながら歌うように話し続ける菜々子の声を聞きながら、雅彦は居たたまれない思いだった。 バカ……バカ……! 何でオマエはそんなにいい人間なんだ? そんなに優しいから、いつもいつも……! そのとき、菜々子は車窓から、義昭がトボトボ歩く姿を見つけた。菜々子は目を輝かせ、車を寄せると、クラクションを鳴らして、 「義昭さん! 銀行の用事、終わったの?」 「あ……ああ、今帰りだ」 義昭は振り返り、力なく笑った。雅彦は、アイツ銀行に融資でも頼みに行って断られたんじゃねえか? ……と、検討をつけた(そしてそれはズバリ的中だった)。 人のいい菜々子は義昭の上っ面の笑顔に誤魔化され、ニコニコ元気いっぱい、 「私、これからお義母様のお使いで、坂の下町の手芸店まで行くところなのよ!」 「……母さんの?」 義昭の表情が引き締まった……。 「―――珍しいわね、義昭さんが、お義母様のお使いに付き合ってくれるなんて!」 菜々子はまるでドライブデートにでも誘われたかのように、ウキウキしながら、助手席の義昭に話し掛けていた。後部座席では、マメクロが、ウ〜ウ〜、キャンキャンと騒いでいる。 『おいっ、油断するな、菜々子! オマエを殺そうと狙ってる男だぞ! ちゃんと前を向いてシッカリ運転しろ!』 「どうしたの、マメクロ? 静かにして!」 犬になった雅彦の言葉などわからない菜々子は、そう言って叱り付けたが、義昭に、 「菜々子、前見て運転して」 と、注意されると、真面目な顔をしてハンドルを握り直した。 下り坂だった。慎重な運転をしていた菜々子だったが、 「……おかしいわ?」 「どうした?」 「ブ・ブレーキが……!」 後部座席からマメクロ雅彦が身を乗り出した! 『何だ、どうしたんだ、おい?』 菜々子の右足が、スカッスカッと、虚しくブレーキを踏んでいる! 車のスピードがアップして行く! サイドブレーキを引いても、スピードは一向に衰えない! 坂の下の交差点を曲がって、大きなトラックがその巨体で二車線を塞ぐような形になった! クラクションの音! 『菜々子―――ッ!』 雅彦が絶叫した! 恐怖に引き攣る、菜々子と義昭の顔……! ―――数時間後。 菜々子と義昭、そして菜々子に抱かれたマメクロが、警察署から出てきた。 「良かったよ、車だけで済んで」 義昭がホッとした表情で言った。 「ゴメンなさい、この間の車の定期点検では何の問題もなかったはずなのに……」 菜々子はしょげている。義昭は重苦しく黙っている。が、ふいに菜々子はパァッと顔を輝かせて、 「あなたが横からハンドルを掴んで、ガードレールにぶつけて、擦りつけながら停めてくれたお陰で助かったんだわ! 義昭さんは命の恩人ね!」 「……よせよ、大げさだな」 義昭は目を逸らせた。 そんな義昭を睨み、マメクロ雅彦は唸り声をあげていた。 『騙されるな、菜々子! 自分の命が惜しかっただけだ、オマエを助けたわけじゃあない!』 ―――そして、帰宅後。 義昭と老夫人はまた、先日の小部屋に二人籠って、ヒソヒソ話をしていたのだった。 「あの女を殺すために車に細工したのに、あなたが一緒に乗って、助けてどうするんです? いったい、どういうつもりなの?」 母親に激しく詰め寄られ、義昭はうな垂れている。老夫人は癇癪を起こして、 「老い先短い母親は捨てて、若いあの女の方を取るというわけ? ああ、もういい! だったら今ここで……!」 と、自分の首筋にカミソリを当てたが、 「やめて下さい、お母さん。わかりました。僕は……決心しました」 「えっ?」 「毒を、使います。青酸です」 「えっ、青酸って……だって……!」 「先日、証書を確認してみたんです。保険に入ってから、一年以上が経っています。自殺でも、保険金がおりるのです」 義昭の青ざめた顔を見返し、老夫人はごくりと喉を鳴らした。 マメクロ雅彦は、部屋の外で、ピンと耳を立て、二人の話を聞いていた……! ―――数日後。 義昭は、夫婦のベッドルームで、老夫人に、壜入りの粉末を見せていた。目をギラギラさせながら、それに見入る老夫人。義昭は、ハンカチで壜をくるみ、 「先日、診療所の薬棚の整理を、菜々子にも手伝わせました。自殺者の指紋はハッキリついています。そしてこれは、当人の下着のタンスから発見されることになります。自殺の時使った青酸を包んだ、包み紙は、バッグの中から発見されることになります。これは、僕が、入れておきます」 「そして、菜々子の自殺の様子は、銀座ミキシムに食事に来た客達が証人、っていうわけね?」 老夫人は、うんうんと頷いた。 階下から、菜々子の、 「お義母様、義昭さん! 準備は出来ましたか〜?」 という、明るい声が聞えてきた。 薄気味悪い笑みを浮かべた老夫人は、階下に向かって、 「準備万端よ!」 と、返事をし、その間に義昭は素早く青酸カリを隠してから、 「さて」 と、ベッドの下に目をやった。 「母さん、なるべく素早く部屋を出て下さい。アイツを閉じ込めますから」 「え? アイツ?」 ベッドの下で二人の悪巧みを盗み聞きしていたマメクロ雅彦は、ギクッとした! 「あの犬、何だか、僕らの言葉がわかっているような感じがしませんか?」 「ま・まさか! 確かに、どことなく薄気味悪いところはあるけど……」 老夫人が慌てて部屋を出、ベッドの下から飛び出してきたマメクロが必死でそれに続こうとしたが、義昭にすかさず蹴飛ばされ、 ―――ギャインッ! と、叫び声をあげながら、壁に背中から叩き付けられた! 義昭は手早くドアを閉め、鍵までかけてしまった……! 『し・しまった!』 マメクロ雅彦は部屋中をグルグル回って、必死で脱出口を探した! 『これじゃあ菜々子が守れねぇ! 菜々子が毒殺されちまうじゃねぇか! 出せ! 出せ―――ッ!』 必死でドアを引っかいても、頑丈なくるみ材のドアは、びくともしない……! 菜々子は義昭と老夫人に挟まれ、楽しげに談笑しながら家を後にした。マメクロ雅彦は、声を限りに叫んでいた! 『菜々子、行くな―――ッ! そいつらオマエに毒を盛るつもりだ、今度こそ確実に殺されるぞ―――ッ!』 雅彦は、必死だった! 何度も何度も、硬いドアに身体を叩き付けた! 背中が痛み、口からも血を噴いた! それでも何とか菜々子を助けたい、菜々子を死なせたくない、それだけを念じていた! だってそうでないと、犬になってまで俺が甦った意味がないじゃないか! 屑みたいな男のままでお終いじゃないか……! 雅彦はやがて、机の傍の小窓の存在に気づいた。窓の外には屋根もなく、遥か下は固いコンクリートだった。 ……犬歴二週間弱の俺に、果たしてそんな芸当が出来るんだろうか? 雅彦は一瞬ひるんだが、度胸を決めた! 『やるしかない! 菜々子への罪滅ぼしだ、そのための命だ!』 マメクロ雅彦は助走をつけ、机を踏み台にして、 『なむさん!』 ガラス窓に向かって、飛び込んだ……! その頃、菜々子と義昭、それに老夫人は、銀座の有名アクセサリー店で、ショッピングを楽しんでいた。 「これになさいな! 素敵よ! 似合うわ!」 老夫人は真珠のネックレスを、菜々子の首に巻いて、はしゃいだ声をあげた! 菜々子は嬉しさ半分、戸惑い半分と言った表情で、 「えっ、だってこんなに高いもの……」 「まあ、私たちの仲で何言ってるのよ、菜々子さん! ……ねえ、義昭?」 老夫人に意味ありげに流し目され、義昭は気まずそうに、 「え・ええ……」 と、頷いた。ふいに菜々子が涙ぐんだ。 「ま・まあっ、どうしたの、菜々子さん?」 老夫人は焦った。まさか見抜かれたのでは? 殺す前のせめてものお情けと、こうして優しくしているところを周囲に見せ付ければ万が一にも疑われることはないだろうと言う計算を……? 義昭もオロオロしていたが、菜々子は、 「ごめんなさい……私、嬉しくて……幸せで……」 「え?」 「私、早いうちに親を亡くしているでしょう? ずっと家族が欲しかったから……お義母様も義昭さんも、こんなに優しくて、私……」 「ば・バカねえ、そんなことで泣いたりして……」 さすがの老夫人も、大いに罪の意識を感じた表情で、菜々子から目を逸らした。義昭は、うなだれている……。 ―――マメクロは走っていた! ガラスを突き破り、コンクリートに転落したマメクロの身体は、血まみれだった。 「何、あの犬、気持ち悪い!」 「しっ! しっ!」 大人は追い払い、子供は悲鳴をあげ、物を投げつけたりしたが、マメクロは構わず走った、走った! 『銀座ミキシムとか言ってたな、あの親子!』 マメクロの中の、雅彦が思うのは、菜々子の命だけだった。 間に合うのか? 菜々子を救えるのか……? ショッピングを終え、菜々子たちは予約した銀座ミキシムのテーブルに着いていた。菜々子一人が心からの笑顔を浮かべていたが、毛利親子は青ざめ、引き攣った笑みを辛うじて取り繕っていたのだった。 ……本当に良かったんだろうか。 老夫人はさっきの菜々子の感激の涙を思い浮かべ、柄にもなく、良心がチクチク痛むのを感じていた。 息子の言う通り、これは良い娘だ。とても心の綺麗な女だ。それを、私の身勝手で……。 隣のテーブルで拍手が起こった。その中の一人が誕生日らしい。菜々子がそっちに気をとられた隙に、義昭の手が菜々子のワイングラスの上で動き、中に何かが落とし込まれたのを、向かいの席の老夫人は見て、ハッとした。彼は母親と目を合わせ、頷いた。 義昭はグラスを掲げた。 「じゃあ、僕らも乾杯しましょうか!」 菜々子と老夫人も、義昭に倣って、自分達のグラスを掲げた。義昭は偽りの朗らかさで、グラスを高く掲げ、 「みんなの健康に! 我が家の未来に!」 「……乾杯!」 三人のグラスが、カチン、と音を立てて合わされた。それぞれが、グラスを、口元へと運んだ。老夫人と義昭のグラスを持つ手は、細かく震えている。 菜々子がグラスに口をつけ、ワインを飲もうとした。 ……いけない、菜々子さん! 飲んじゃいけないわ……! 老夫人が思わずそう叫びだしそうになった、そのとき! 「うわっ、どこから入ったんだ、この犬っ?」 「待て! 捕まえろ、追い出すんだ!」 出入り口で時ならぬ騒ぎが起こったかと思うと、贅を尽くしたこの銀座の名店に不似合いな、血と埃で汚れた犬が飛び込んで来た! 「えっ? マメクロ……?」 『飲むなあ、菜々子―――ッ!』 マメクロ雅彦は、菜々子に飛びつき、彼女が持っていたワイングラスを叩き落した! グラスは薔薇色の大理石の床で割れ、ワインは飛び散った……! スタッと床に降り立ったマメクロは、義昭と老夫人の方を見て、ウウウウウ〜ッと歯を剥いて威嚇した! 『何とか間に合ったみたいだな! おい、おまえら! 菜々子は殺させはしねぇぞ、この俺が命に代えてもな!』 「よ・義昭……」 老夫人は恐怖の色を瞳に浮かべ、息子の後ろに隠れた。義昭も呆然として、この小柄な柴犬を凝視していたが、 「……やっぱりキミは、人の言葉がわかるみたいだな。レストランでこういう騒ぎを起こされると困るから、閉じ込めて来たんだが」 と、ザワついている周囲を見回しながら、フッと笑った。そして、砕け散った菜々子のワイングラスを指差して、 「大丈夫だよ、ワン公。その中に入れたのは、栄養剤だ」 「……? 義昭……さん?」 菜々子は、もちろん、何が何だかわからない表情だった。義昭は哀しげに微笑んで、 「すまなかったね、菜々子、母さん。最初からこうすれば良かったんだ」 と、自分のグラスを取り上げて、目の高さに掲げた。 「母さん。僕も菜々子と同じ時期に、保険に入ってるんです。もう、一年以上が経過しています」 「よ・義昭……?」 老夫人はギョッとした。 義昭は、万感の思いを込めて、菜々子を見つめた。 「本当にすまなかったね、こんな恐ろしいことにキミを利用しようとして……でも、僕は今では、君のことを本当に……」 そこでいきなり、彼は、グラスを煽った! 次の瞬間、義昭はワインと一緒に血を噴き、ドゥッと倒れた! 「キャアァァァァァ―――ッ!」 「義昭さんっ?」 菜々子たちが絶叫した! 他のテーブルの客達や、レストランの従業員達もパニック、雅彦も茫然自失だった……! 『なん……で? この男……?』 何故自分が毒を煽った? 何故土壇場で菜々子を救った? 「義昭さん! 義昭さ―――んッ!」 菜々子は義昭の頭を膝に抱いて、絶叫していた! 義昭は彼女の顔を見上げ、何か言おうとしたが……ガクッと首を垂れ、絶命した……。 ―――病院の霊安室。 顔に白い布を被せられた義昭の傍で、菜々子と老夫人がパイプ椅子に腰掛けている。 「夫が亡くなって……遺産に大変な税金が……貯金と言って殆どなくて、家屋敷や診療所を手放すしか……それで……保険金殺人を……」 老夫人は、切れ切れに、自分の罪を告白していた。 「バチが当たったのよ。私のワガママがこんな事態を招いたんだわ。許してちょうだい、義昭……許して、菜々子さん……!」 老夫人は号泣し、菜々子は声もなく、その背中をさするしかなかった。 ……義昭さん……私を死なせたくないばっかりに、自分の命を捨てるなんて……! 菜々子も、涙が、止まらなかった。 マメクロ雅彦は、病院内の監視体制を掻い潜り、今、菜々子の足元で丸くなっていた。雅彦は、あれからずっと、考え込んでいた。 泣いて泣いて泣き飽いた頃、老夫人がヨロヨロと立ち上がり、 「……私、これから、自首しに参ります」 「お義母様?」 「全てを告白して、罪を償うの……死刑になっても構わない……」 「待ってください、お義母様! そんなことしても、義昭さんは決して、喜びはしませんよ!」 「放っておいて! 義昭がいなくなった今、もう何もかもどうでもいいの! ああ、息子さえ生き返ってくれるなら、私、何も要らない、他は何もかも捨てても構わないのに……!」 どうしても自首しに行くと言う老夫人と、それを止めようとする菜々子が泣きながら揉み合っている傍で、マメクロ雅彦がふいに起き上がり、 ―――ウオォォォォォ……ン……! 長く声を延ばして、遠吠えをした……! 『神様、俺の願いが叶うなら、お願いです! もう一度だけ……!』 マメクロ雅彦は、ひらりと、義昭の胸の上に飛び乗り、その上で丸くなった。 「マメクロ……?」 思いがけない柴犬の行動に菜々子は驚いたが、次の瞬間、もっと驚くべきことが起こった! 「う―――……ん……?」 うめき声とともに、青酸で即死だったはずの義昭が、上半身をむっくりと起こしたのだった! 菜々子と老夫人は、揉み合った形のまま、固まった。 「よ・義昭?」 「義昭……さん……?」 義昭は顔に被せられていた白い布を取り去り、キョトンとして、 「? どうしたのかな、僕は? 母さん? 何を泣いているの?」 「よ、義昭ぃぃぃぃ〜っ!」 老夫人は、ガクガクと、膝を震わせた。菜々子は目を見開き、彼の顔を見つめていたが、義昭は不思議そうにその瞳を見返して、 「あれ? キミはうちの科のナースの、田村くん……だっけか? どうして僕の母と一緒にいるのかな?」 「せ・先生方! 先生方、来て下さいぃぃぃぃ〜!」 老夫人は、医師を呼びに、霊安室から転がり出て行った……! 義昭は眩しそうに菜々子を見つめていたが、ふと、自分の上で丸くなっている柴犬に気がついて、 「この犬は……キミの? 死んでるみたいだけど……」 「えっ? マメクロが……?」 小さな黒い柴犬は、丸くなったまま、息をしていなかった。 「そんな……マメクロ……!」 菜々子の瞳から新たな涙が一粒こぼれた……! そこへ、義昭の死亡診断書を書いた医師他、十人近い医師たちが雪崩れ込んで来て、 「馬鹿な! 青酸中毒で直撃死だぞ! 息を吹き返すはずがないのに、いったいこれは……!」 と、てんやわんやの大騒ぎを始めた……! ―――それから、半年が経った。 結局、毛利一家は家屋敷や診療所を綺麗サッパリ売却してしまい、税金を払って、残金でマンションを買ってそちらへ引っ越した。老夫人は憑き物が落ちたように古い屋敷への執着を無くし、新しい場所で、息子夫婦と仲良く暮らしている。 義昭は、菜々子と結婚してからの記憶を完全に無くしていたが、それ以外は心身ともに健康で、元務めていた病院でまた勤務医として働き始めた。菜々子も近くの診療所へ、看護士として復帰した。 「義昭さん、ネクタイ! 曲がってるわよ!」 新しい毛利家の玄関。マメクロの写真が飾ってあるげた箱の前で、菜々子が義昭を呼びとめ、ネクタイを直してやった。その睦まじい様子を、老夫人がニコニコと見守っている。義昭が真っ赤になって照れているのを見て、菜々子はクスッと笑って、 「いい加減、慣れて下さいな」 「いやあ、ごめんごめん! キミと結婚したことをスッカリ忘れちゃってて……なんか、変な感じなんだよね」 マンションから小走りに出て通りを目指しながら、二人は、仲良く話し続けている。義昭は頭を掻きながら、 「でもね、何もかも忘れても……キミを幸せにしなきゃいけない、ってことだけは、憶えてるんだ」 「まあ」 菜々子はそばかすだらけの丸い顔をポッと桜色に染めた。義昭は続けた。 「それに、不思議なんだよね。見も知らない男に、菜々子を幸せにしろ、しないとブッ殺す! って、しょっちゅう夢の中で締め上げられているんだよ」 「見も知らない男?」 「あっ、いかん、バスが来た! じゃ、菜々子も仕事頑張れ!」 義昭はどさくさ紛れに菜々子の頬にチュッと唇をつけて、バスターミナルの方へ走って行った。 頬に手を当てて、幸せそうに義昭を見送っていた菜々子は、あれっ? と目を擦った。 走る義昭の後ろ姿に、もう一人の男の姿が、陽炎のように重なった。 その影は、菜々子を振り返ってちょっと笑って……、 静かに、消えて行った……。 (了) ※この作品はフィクションであり、実在の団体等とは無関係です。 ※また、知識に関しては必ずしも正確ではないことを追記させて頂きます。 |
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『眠る犬のいる風景』
『晴れた日には犬を連れて』
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